屋根を地面を緑の葉を叩く雨の音で目が醒めた。全身を襲う倦怠感は、無理矢理腕を縛られた名残だろう。肩や健康骨付近が熱を伴う鈍痛を訴える。
雨雲に隠れて朝日は無く、空を覆う曇天は厚すぎて、朝か夜かもわからない。ただ体を包む服は、昨晩見合いから帰り行き倒れた礼服ではなく、代えた記憶のない寝間着になっていた。筋の痛む首をなだめながら時計を探すべく辺りを見回すと、自身の体から石鹸の香りが立ち上った。
風呂に入った記憶も、衣服を着替えた記憶もない。誰かが全て世話したのだろう。恐らく、あの女だ。
男が舌打ちしたが、雨にかきけされて彼にしか聞こえなかった。
横になった姿勢では時計すら満足に見つからない。気だるい体を起こし、寝具回りがあまりに整っていたから、悪い夢でも見たのやもと淡い溜め息。無論腰に鈍痛が残るはずもなく、ただ背中から上が不自然に痛い。縛られた手首を見たが、あれほど抵抗したにも関わらず、傷一つ残ってはいなかった。
その白くしまった手首を握りながら、執事を呼ぼうと開いた薔薇がすぐに閉じる。
呼んでどうする、何を訊く。事情など話せる筈がないではないか。女に襲われた、とでも。青い目が自嘲気味に細められ、いかんともし難くベッドから降りた。
時刻になれば嫌でも呼びにくるだろう。たまには早起きもいいではないか。
壁に掛けられた礼服に着替えようと寝間着を脱ぐ。露になった白い体を見て、息を飲んだ。
鎖骨に、胸に、腹に、臍の隣に 肩に、赤い花。
慌てて姿見に掛けられた布を剥ぎ、全身を映すと、首にも、喉仏にも、背中にも、余すところなく咲き乱れた赤、赤、赤。
夢やもと抱くあわい希望を否定して、散々遊ばれた胸の桜は、季節を遡り、紅梅のように赤く熟れていた。認識した途端、昨晩の女の冷たい掌の感触が、吸い付く唇が、熱い舌が、蘇って体が震えた。
押さえた唇、顎が痛むのは間違いない、無理に布を詰められたせいだ。
細い両の腕で体を抱き、芯に蘇るうずきに身を屈める。頼る壁すら届かずに、上げた視線の先に鏡、に映る己の顔は、まるで悲鳴のようだった。

「…っそ」

幾ら知りうる言葉を使って己を叱咤しようと、呪われたように熱は溜まるばかり。だれも触れてなどいないのに、頭をもたげるそこ。少々顔の角度を変えれば鏡に映った己が見える。慌てて目を反らしたが、再び布をかけようにも、熱に砕けた腰では立つことすらままならない。
うつ向いて鏡から目をそらすと、冷たい床に滴が落ちた。雨漏りするようなやわな建物ではないはずなのに。
王子の指が、屈辱に小刻みに震えながら、寝間着の下、頭をもたげた自身を握る。堪えきれず扱きはじめ、足りずに伸ばした手が行き着いた先は、赤く熟れた胸の頂き。
震える指、確かめるように触れると、背筋に甘い痺が走った。

「くそ…っ、くそ…っ、ちくしょう…っ」

口をつく悪態すら濡れて、かすれた喉、また滴。容易く熱を孕んだ体は容易く熱を吐き出して、ぐったりと床に倒れ込んだ。

その日からパタリと見合い話が無くなった、ならよかったのだが。変わらず毎日のように見合いが行われた。
毎晩のように、女が来た。
女は王子が眠りに落ちてから現れ、王子が意識を手放してから消えた。名前も産まれも告げない彼女の、声と巧みな指にばかり侵されて、どちらが男かわかりはしない。
見合いで女をやりすごすにも、次第に吐気を隠しきれなくなっているのは、自覚できるほどに明らかだ。女が手でも握ろうものなら、頭部を巡る血液が、一気に全て流れ出て、さらには凍てつくような寒さに襲われる。もとより白い肌が、完全に血の気を失う様はさながら蝋人形。
女たちが、近頃王子の加減が芳しくないと噂するのも広まるのも、さしたる時間はかからなかった。

「あなた、最近具合が悪いんですって?」

女は王子の熱を孕んで、薄い液を吐き出す雄の根本を、細い糸できつく結びながら、心配のしの字も感じさせないその口調。
ひくつく先端に、溢れた体液を塗り込めば、猿轡を噛まされた男の目から涙が落ちる。

「変ねえ、こんなに元気なのに」

指に絡んだ半透明の体液を、わざわざ王子の目の前で舐めてみせる。赤い唇が濡れて、なお赤い。
女は王子の口から猿轡を外して、まだ幾らか、体液の残る指を口内に入れた。
声を上げようとひくつく舌を擽れば、催す快楽と込み上げる嘔吐感。喉をひくつかせて唾液を飲むが、余ったものが口の端から流れ出る。
限界を迎えながらも紐に道を閉ざされて熱を吐き出せないもどかしさ。苦しげに身をよじる彼を見てほくそ笑む女の、何と月夜が似合うこと!耳元唇よせて、

「どうして欲しいかお言いなさい、坊や」

縛られた手では、たかが紐一本自由にできない。きりりと奥歯を噛み締めても、彼女の柔らかい掌に握り込まれた自身が、彼から自尊心を薄れさせる。

「…かせて…いっ」

喉が絞り出した声はかすれ、流れ落ちた唾液にむせた。
女が首を傾げる。黒真珠のごとき瞳が笑う、意味を王子は知っていた。体の芯に刻みこまれていた。

き こ え な い わ

拳を握る以外一切の動きを奪われた手。強く握り過ぎて、食い込んだ爪の跡から鋭い痛みが走った。

「いかせてください」
「よくできました」

女は王子の額を撫でて、顔にかかった髪を払う。そして彼の雄から紐を解いて、それを己の花弁に埋めた。
冷たい指先が嘘のように、熱い熱い花は、王子を食い千切らんばかりに喰らい付いて、闇夜に響くスプリング。焼かれる灼熱に彼はまた意識を手放したのだった。










相も変わらず、かすり傷一つ残らない手首に残る倦怠感。払うように撫でながら、見上げた窓には紅葉。季節は足音もなく夏を喰らった。
王子の加減が悪いからと、見合い話はいくらか遠のいた。朝礼の際にいくらかほのめかされる程度だが、女の名を聞くだけで、罪悪感に似た嫌悪が彼の背筋を舐めた。

執事は次第に口数を減らす彼に、何かを尋ねる気配はない。もしかしなくても、彼は全てを知っているのだろう。
夜が聞こえれば、背筋が震え、部屋に入れば足が震え、ベッドに入れば夢に落ちるのも困難なほど、熱がともった。
彼の体は夜を迎える度に、今宵も訪れるであろう女の手を、狂おしい程に求めていた。
夢現に彼女の声が聞こえては、溢れる己の声の甘さにめまいがする。

空気が冷えた分だけ厚くなった寝具の中で、しかし、女は来なかった。
持て余した熱を覚ますすべなどとうに忘れた彼は、寝具の中、熱にあえぐ自身をしごいて、はらりはらりと落ちる涙を、不覚と感じることすら忘れていた。

翌朝、汚れてしまった寝具をどう誤魔化そうか途方に暮れる王子の元へ、届けられた手紙が一通。
持って来たのが執事ではなかったから、不審に思いながらも、あの安い花の香水が香り、心臓が大きく脈打った。
手紙を運んだメイドに礼を言って扉を閉じ、震える指を抑えて深く、深く空気を吸って、吐いた。金細工の鮮やかなペーパーナイフを封に差し込み、一寸の狂いもなく切り開いた。
中には一枚の淡い桜色のハンカチと、手紙。開けた封から益々強く安い花の匂いが昇り、それはハンカチからだとわかった。

手紙は日焼けした安い紙。しかしそこに踊る文字は、彼女の美しい曲線を彷彿とさせる優美。

『愛しい坊や

とある富豪のお目に留まり、売られることになったの。引き取り日は次の満月の夜。
安心なさいよ、母も姉も、つまりは私の家族皆、納得どころか大喜びだから。
娼婦をしないと食べて行けない家ですもの、食いぶちが減る上にお金が入る、素晴らしいじゃない。

だからもう坊やのお世話はできない。
次の満月からは、ね。

雨が降れば良いのにと思う私は贅沢かしら


手紙はそこで止まっていた。紙を握る手が小さく震える。
娼婦、と書きながら、優美なその文字は確かな教養を匂わせた。彼女の名前も産まれも知らない。手紙にもそれは書かれていない。
小刻みな震えは、指から手へ、手から体へ広がって、冷水を浴びたように全身が冷えた。

あの女が来ない。
あの冷たい手に触れられない。
あの赤い唇に届かない。
あの灼熱の花弁に食われることはない。

そう理解しただけで、足元が揺れる程の絶望を感じた。
この体はこんなにも、あの女に捕えられてしまったのに。

瞬間、視界が真っ黒に染まって、地面の感触を失った。とっさに伸ばした手がテーブルクロスを掴み、その上に並べられた分厚い書物や花瓶が落ちる。音を聞きつけた執事が扉を叩き開け、駆け込む。
テーブルクロスを握ったまま、力無く床に腰を落とした王子の肩を揺らし、王子、王子と鋭くささやいた。
その皺がれた独特の声に意識がようやく浮上。王子は執事の肩を叩いて無事を告げた。
安堵の溜め息をついた彼に、女からの手紙をつきつける。

「この女を、探せ」
「王子…?」

眉根を寄せて手紙を受け取った執事は、手紙を読んで目を見開いた。

「雨を降らせる」
「しかし王子、たかが娼婦一人のために、王家が動くなど、許されません」
「ならば、引きずりだすまでだ」
「王子」

叫ぶのではなく、しかと地を掴んだ静かな声は、大声で叱咤するより余程迫力があったが、それでも彼は首を縦にはふらなかった。
名前も産まれもわからない、ただ声と重ねた肌の感触ばかりが明確で、果たしてどう探せというのか。国の女を片っ端から床に呼ぶか。
吐き棄てるように笑い、それでも雨を降らせると言い張る青年は、美しかった。
考えうる危険性を並べたてたうえで、それでもと言い張る王子に、執事が最後にきいた。

「仮に、彼女を見つけたとして、いかがなさいますか」
「召しとる。彼女が拒絶しようが、知らない。金がいるならその辺の宝石でも何でも売ればいい」
「わかりました」

執事の声は溜め息とともに。そして、彼の顔に笑みが浮かんだ。

「王子、そのハンカチを、開いてよくご覧ください」
王子は手にした安い花の香水が染みたハンカチを、言われるままに開いた。開く度に、花の香りが鼻孔を擽り、あの艶やかな黒髪が視界を覆って、彼と彼女以外の全てを拒絶する一瞬が脳裏を染めた。しかし彼の目に宿ったのは、恍惚ではなく、驚愕。
桜色のハンカチを開いて現れたのは、ある家の紋章だった。身分ある者ならば知らぬ者はいない程の、かつて栄華を誇った貴族。東洋からやって来て、巧みな知識と技術を駆使し、しがない田舎町を数年で美しい都市に変えてしまうような、金と地位ばかりにたよる貴族ではなく、才ある一族だった。数年前、当時の家主が病死してから後継者がなく、その名を伝説へと変えようとしていた一族。
彼女のハンカチに、その一族の紋章が、一見して高価とわかる糸で刺繍されていた。
「…彼女は」

驚きのあまり渇ききった喉から、ようやく声が湧いた。

「何故、知っていた」

執事を見上げる、と、彼は歳月を重ねた独特の目元、ゆっくり瞼を伏せて、片手を胸に当てた。
「私は、女の居場所も名前も存じております」
「何故…」
「王子、こうしましょう」
「何故、知っている」
「舞踏会を拓のです」

何故と繰り返す王子に、淡々と言葉を続ける執事。王子は深々と溜め息をついて、わかった、と一言。

「舞踏会、で、どうする。娼婦身分の人間をどうやって招待する」

執事は目を見開いた。王子は蜂蜜色の艶やかな髪をかきあげて、沈黙暫く。

「こうしよう」

先に口を開いたのは王子。
「次の満月の夜、国の全ての女を呼べ。花嫁を探すと口実をつければいいだろう。金の無い者の衣装はこちらで用意する」
「王子…」
「案ずるな、父上にねだらずとも、その程度の金なら用意できる。」

王子が視線を向けた先にある、巨大な衣装棚には、貴族から貢がれた金銀宝石が詰まっていた。それを知るのは王子と執事の二人だけ。防犯の意味も込め、城内では固有財産は個人で管理するのが彼等の暗黙のルールだった。

「かしこまりました」

執事が深く深く頭を下げる。衣装棚の鍵を彼にわたし、後は王に許可を求めるだけだ。彼女の家を知れば、王も正妻に彼女を据えることに口をだせまい。あとは盛大に宣伝をして、参加を義務にすればいい。
王子の妃を買い取ろうとするほど、例の富豪も無知ではないはず。

「雨を、降らせる」
「かしこまりました」


その日から暫く国が湧いた。女たちの黄色い声が町中を飛び交い、町娘に負けるまいと貴族の娘たちが国外にまで手を伸ばして一流の衣装を探す。

答えは初めから決まっているなど知らない彼女達を後目に、王子は一足の靴を作らせた。凛と涼しい硝子の靴。
闇夜に映える赤い唇に、燃えるような華を隠した彼女に似合わなさすぎて笑えた。彼女が此を履いて、破らないよう、不器用に歩く。考えただけで言い知れない優越感が彼を染めた。
上品なクリーム色の箱に入った硝子の靴を受け取った執事は、片膝をついて箱を掲げ持った姿勢で、王子、と言った。

「王子、彼女を城へ勤めさせたのは私です」

王子は今更驚きなどしなかった。若葉のような笑みではない、闇夜に濡れた青い目が執事に言葉を促した。

「私は、彼女の家に仕える執事でした。王家と彼女を繋げば、一族は…」
「感謝している」

言いかけた執事の言葉を、鋭利な太陽の光のように、ぴしりと切った。目を見開いたのは執事ばかりで、王子の顔には笑み一色。「彼女の名前は?」

執事は一度頭を下げて、下げたまま告げた。

「今はシンデレラと名乗っておいでです。本名は、どうぞご自分で」


二人を見下ろす夜の空、秋にふさわしく高くかんと晴れ、まごうことなき晴天を誓う。


明日は、満月




-幕-




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