「あなた、だあれ」


真っ暗な裏通りにぞっとするほど良く似合う、澄んだ女の声。
甘く鼓膜にまとわりついて、ざわりざわりと産毛がたった。
女の姿は見えない。声だけくっきり浮かび上がる、それはまるで、鋭利な刀のような。


男は唇を開いたが、唇と唇が引き合って開くのにずいぶん苦労した。舌も喉も震えて声が出ない。それを認識した瞬間、何故か景色が開けた。足が勝手に走り出していた。
大きな街道にでてようやく、まだ心臓が動いていることに気付き、ひらききった瞳孔が光に合わせて収縮する。

「王子!」

けたたましい足音と共に耳慣れた渋みのある声が男の皮膚を包んだ。
ようやく呼吸を思いだす。

「王子、一体どちらへ…」
駆け寄った執事は顔と髪の境が危うい程に血の気を無くしていた。男はようやくすまないと詫びるだけで精一杯だった。体の芯が心臓の動きに合わせて揺れる。まだ夏だというのに酷く体がつめたかった。





[シンデレラ【王子の場合】]




『あなた、だぁれ』


声に息を詰まらせ、目が覚めた。男の体は天涯つきのベッドの上、夏には少々暑苦しい極上の弾力にくるまれた、軋みもしないスプリング。あらゆる汚れを排除した眩しいばかりの白いシーツに、夏の鋭い日差しが刺す。いつも窓際で餌をねだる小鳥も今日は夏バテらしい。広葉樹に囲まれた城は、湿潤過ぎた。汗だか湿気だかわからない。

昨晩、男は酒をたしなみ、初めて口にした異国の酒がよく舌に馴染んだため呑みすぎた。証拠にまだ頭に鈍痛。清潔な白がうとましかった。

店を出て、城に戻ろうと執事が馬車を呼ぶ背中を見たところまでは覚えている。しかしその後、どうしてああも不気味で張り付くような闇の裏路地に紛れたのか。無意識にトイレでも探して酔いに任せて迷ったか。

けれどもあの女の声ばかりが明確に脳細胞の一つ一つに染み付いてこびりついて離れない。音を捕えた鼓膜すら、捕われてしまった。
あまりに鮮明で、朝の光のなかだというのに、月すら隠れた新月の夜のような光惚。

鈍い体を持て余し、日のさしぐあいから間もなく朝礼の時刻だと認識しながらも、うっとうしい寝具の弾力に再び体を沈めた。天然樹を使った分厚い木製の扉がノックされた。
「王子、お目覚めですか」
しわがれた独特の渋い声は執事のもの。このまま放置すればいずれ扉を押し上けて入室し、次は起き上がるまで耳元で同じ台詞が繰り返される。それは非常に不愉快だ。精悍な顔のきりりと通った眉の間に深い皺を刻み体を起こす。ぐらりと視界が揺れる。実に実に煩わしい。
さわやかな朝日に、聞こえてくるのが若く耳障りな好青年でなくてよかったと目覚める度に男は思う。

鮮やかなのは外観だけ、いつ腹違いの兄弟に寝首をかかれるかわからない、そうだ、処刑の日を待つ囚人のような。なのに爽やかとかきらびやかとか、嘘くさくて寒気がする。

「起きてる、直ぐに行く」
静かになって、廊下の向こうで踵を合わせる音がした。

薄い寝間着をぬいでさらけだされた白い肌、寝癖知らずの蜂蜜色の髪は柔らかく肩に流れ、長い睫毛が持ち上がって現れた瞳は深い夏の海の色。
昨晩から用意された礼服に袖を通し、白いネクタイを結う。
もう一度扉のむこうから踵が揃う高い音。
嫌味なまでに輝く大理石を蹴って、夜のとばりに別れを告げるのを耳で捕えて脳が認識、判断。

途端男の瞳は柔らかい春の日差しのような光がともる。
白い肌、肩を流れる柔らかい髪を白い指で結いとめて、朝日と広葉樹の薫りを深く吸い込み背筋が伸びた。
赤く命を刻む唇は薔薇。唇の端を上げて青い瞳を淡く細める、王子。だ。

男は扉を開け、執事に笑顔を向けた。おはよう、おはようございますとつかいふるされた挨拶を交わし、朝礼が行われる大広間へと足を向けた。
大理石の美しい床を柔らかく蹴る足音が響き消えては遠ざかった。

柔らかそうなのは見た目ばかりの椅子に座り、繰り返される同じ挨拶。会議は会議で別に行うから、彼等は毎朝同じ言葉を繰り返し、形式通りの仕草を繰り返し、ああ、ああ、飽々する。

欠伸と嫌味を胸中吐き棄てながら、春のみずみずしい若葉のような笑顔を浮かべ続け、疲れた。


「相も変わらず吐気がするね」
「王子の笑顔にでしょうか」
「お前の嫌味にも」


組んだ足が酷く長い。ゆったり形の美しい顎をなでる指は優雅なことこの上ない。


「次の会議は」
「王は王子の出席に許可を下さいませんでした」
「またか」
「はい。そのかわりのスケジュールでございます」

執事が差し出した一枚の紙にびっしりと書き込まれた女性の名前が、彼女たちの滑らかに隆起した曲線のようで、また頭痛。

「父上は、懲りるってことをご存知ないようだ」
「王子も、妥協するということをご存知ありませんね」
「ああ、僕の辞書に文字はないから」
「王子、それは不良品ですぞ」
「僕も」
「いいえ、どんな高級役者より余程御立派です」
「役者に高級も下級もあるものか。あの奔放さが羨ましいね」
「無いものねだりをなさいますな」

すらりとしまった顎を小さく引いて、容量を超えたアルコールと戦う彼は額を叩いた。
わたされた曲線だらけの用紙を眺め、ついた溜め息からはアルコール臭。青い瞳をからめとるインクの羅列を弾き出すように、再び瞼を閉じた。

王子王子と呼ばれながら、彼は結婚適齢期だ。貴族の親が娘の匂いをほのめかし、独身の熟女が隙をみては肌を寄せる。肌から香る香水の、脳天を突き抜ける不自然な匂いに、逃げる足を留めおくのが一苦労。彼等の目に映るのは、金と地位と権力だ。王子の美しい容貌も、そこに閉じ込められた人格も、彼等にすればおまけだろう。
王子は未だ未婚だった。それどころか、うわついた話題の一つもない。気の早い彼の父は、そんな彼に度々見合い話を持って来た。

「王子」
「なんだ」
「本日のレッスンはお断りしますか」

王子は白い額をおさえたまま、眉間を寄せて小さくうなった。高い襟と絞められたネクタイの隙間から見える白い喉が小さく震える。

「断ったら、どうなる」
「スケジュールが前倒しになりますので」
「今から見合いか」
「おっしゃる通りです」
繊細な模様が刻まれた上質な布が張られた椅子の、手摺は深い焦茶色の天然樹を、きれいな団栗型の薄い桃色がかった爪に守られた指で弾く。

「わかった、断らない」
「かしこまりました」

執事が身の回りを整えて暫く、教育係の一人が扉を叩いた。



1 2 3