こなければいいのに、もう幾度めの朝だろう。
今日は特別朝日が強烈だ。

タオル記事のシーツは湿気を含んでまとわりつき、産毛が額にも項にも張り付いて逆撫でする。


フミカは薄いシャツ一枚に、くっきりすいつく柔らかい体を透かしながら、重苦しい朝の空気を押し上げてベッドから出た。


後は制服を着てリボンを結んで鞄を持てば、完璧。一連の動作は滑らかに繋がって、始終結ばれた唇も、あああ、被るための儀式なのだろう。

薄手の白いカッターシャツ。苦しいことこのうえなくて、鏡にむかい笑いかける。

オハヨ


口角をきゅっと上げたアイクルシイ女学生。見事なものだ。ハリウッド女優も打ち負かす自身に満ちた白い頬。


だってしようがないんだもの。


階下から急かす母の声が届いて、答えた声は我ながら不愉快にあかるかった。


外に一歩出ると、朝早くからご苦労なことに、底意地の悪い太陽がギラギラとコンクリートの地面を焼いていた。

蝉の声は一段と激しい。


どいつもこいつもさかりつきやがって。



まだ5分も歩かないうちから汗腺は体液をはきだす。
日焼け止めは充分ぬりこんで来たが、あんなうすっぺらくて学生の許容範囲の狭すぎるお財布で買える程度のクリームが、果たしてどこまで粘ってくれるかなんて政治家がホントに国民を思って政治をしているかどうか以上に疑わしい。


途中のT字交差点、熱くなりすぎて悲鳴を上げる地面がじゅわじゅわ空気をやいて、足元がゆらりゆらりと霞む。そこに健気に息づく青い草たちはさぞかし熱いんだろう。

できるだけ日陰を選んで立ち止まる。

なんとなしに見上げた空はペンキをぶちまけたように青い。成長期の子供もびっくりのスピードで成長した入道雲は太陽の光をスポットライトにいい気になっている。その巨体で荒れ狂う太陽を隠してくれたらどんなに楽か。
まったく気がきかない奴だ。


立ち止まって、仲良く雑草と焼かれ続けて10秒、30秒、1分、2分、5分……10分……

時間がたてばたつほど、太陽光に踏み潰される手の甲。必死に握りしめる学生鞄が着々と重みを増しているように感じた。


肩が抜けそうだ。


うつ向くと、ポニーテールの髪がさらりと落ちてきて、耳元を擽った。


ああ、また体の中、高機能の製氷機が役に立たない不愉快の塊を音高らかに製造する。

帰ろうか。でも今日鍵を忘れてしまった。両親はもう仕事に向かっただろうから、家には入れない。
学校も遠い。

だってアキラが隣にいない。

あの日からフミカは一人で登下校していた。じりじりと頭のてっぺんから溶かし尽そうと目論む太陽も、アキラがいたから鼻で笑えたのに。

選んだはずの影が太陽のポジションチェンジによりすっかり消え去った。
仕方がない、行くしかない。これ以上、何かを吸い込んで鞄が体重を増やしたら、もう歩けなくなってしまう。



馬鹿。馬鹿。馬鹿。








その日は昼休みもアキラは来なかった。

もしかして欠席かしら、なんて愚かな期待を抱いて、彼女のクラスへ足を…向けなければよかった。
他のグループの子に爽やかに声かけて、一緒に食べようって言えばよかった。欠席だって信じて一人で食べればよかった。


知らないはずなかった。
だけど、アキラは女の子だった。
甘いチョコレートのように香り立つ、むくむくマシュマロのように弾む、くるくる猫のように柔らかい、アイスクリームよりも簡単にとろけてしまいそうな、女の子だった。

しってた。だけど、アキラより早く、フミカが溶けた。強烈過ぎる優しい甘味に脳味噌を春の日差しでぐつぐつ煮込んで、山のような砂糖と、たっぷりの蜂蜜で味付けされてしまっただけ。
うっとり背中にすがって、でも梅雨があけるころから、迫りきたのは現実で、安い蜂蜜独特の妙な苦味やら、お酢より強烈でレモンよりしつこくて、梅干しより鋭い酸味が、次々にくわえられた。
飽和もいいところ。
色は混ぜすぎたら真っ黒になる。ならこれは…?


よらないで、アキラにあんたの汗の臭いがついたらどうするの。唾がとんだらどうするの。腹でも切るの?できないくせに。
頭より脊髄より早く、両足が反応して、気付いたら胸が苦しいくらい全力疾走して、気付いたら涙で顔がぐちゃぐちゃで、酸素が足りなくて耳鳴りがした。

見たくなかった。
しらないフリをした。
耳に入っても、固く固く蓋をして閉じ込めた。

アキラの隣を、独占したのは男の子。


アキラは私が知ってる以上に女の子で、私が知ってる以上に甘い笑顔を振り撒いて、くるくるのくせっ毛に、触れる堅い掌に目を細めた。

さ わ る な っ


屋上のドアを体当たりで開けてさけんだが、酸素が足りなくて音なんてでなかった。
力尽きた膝が地面に落ちて、鈍い音。
痛い。


涙がとまらなくて息が上手く吸えなくて、セキが出て、涙がとまらなくて、鼻水もとまらなくて、頭がくらくらして、ひーひー言う喉の惨めな遠吠え以外何も聞こえなかった。

涙は本当に枯れるんだと初めて知った。
瞼が重い。
失恋は甘酸っぱいなんて嘘だ。甘いのは、それはアキラが甘いから。彼女の髪の毛のさきっぽから爪先の先の先まで、体を包み込む皮膚の全て、隅から隅まで全部、蜂蜜やチョコレートや綿菓子や水飴を練り込んだように、甘い甘い、あまい芳香を醸し出しているから。
だけど、酸っぱいなんて可愛いものなんかどこにもない。体の隅々を激痛が貫いて、地面をひっくり返して空に放りだされたような、体を支える骨の全て、全部ぐちゃぐちゃに複雑骨折してしまったような、喉仏の辺りから胴体をまっぷたつに切り裂いて、内蔵を全てかき出すような。

やめてやめて。そんなことをしてしまったら、消えてしまう。
痛くて痛くて、痛すぎて、もう痛みがわからない。

消えてしまう。

痛みと共に、ココロが消えてしまう。

見上げた空は、いやみなくらい青い青い、恐怖を煽る青い空。







学内でアキラと会う頻度が格段に減った。

朝は一緒に登校して、昼は一緒に弁当を食べ、昼休みは一緒に更衣室で漫画を貪り、放課後は一緒に下校して、たまに寄り道した。

元々クラスが違ったのだから、それだけの時間を独占していた方がおかしかったのかもしれない。
それでも、アキラの24時間のうち、たったそれだけの時間を共に過ごしただけで、独占しているなんて甚だ愚かな勘違いをしていた。
アキラが私にふりむいてくれなくたっていい。アキラが男の子から好かれたっていい。アキラはまだ、私と一緒にいてくれるもの。


「…はっ」


屋上から、だいぶ穏やかになった日差しを背に受けて、見ていた。

アキラと、アキラを独占している羨ましいくも妬ましく、おぞましい男。



見下していた。
アキラはびっくりするほどあっさりと、昼休み更衣室で漫画を貪る頻度が減った。

初めて朝一緒に登校しなかった日は、交際2日めの朝で、1日彼の事で頭が一杯だったのだろう。深夜になって、携帯電話に電話がかかってきて、いつもなら何でもメールで済ませるくせに、そもそも携帯を固定電話に変えちゃう才能の持ち主なのに、その夜だけは、携帯から携帯に、直々に電話が入った。フミカが昼に泣きすぎて痛む喉で

「もしもし」

と答えたら、アキラの方が何倍も泣きそうな声で、

「ごめんっ!フミカ、ごめんね、ごめん、なさい」


10回くらい謝られた。
あんまり謝り続けるから、なかなか話が謝罪から先に進まなくて、つい、笑ってしまった。

昼休み、カンカン照りの太陽に焼かれながら、涙と一緒に、ズタズタになったココロを、アキラを好きな部分だけ、だらだら鉄臭い血液を流しながら摘出手術したはずだったのに、なのに、華奢な体を抱き締めてぎゅっと抱き締めて、頭から丸飲みしてやりたい衝動にかられた。ずるい。
不覚にも、最高級の日本刀よりも、爆弾よりもミサイルよりも地震よりも破壊力を持ってズタズタにされたその人を、しかもその日のうちに、好きだと再確認してしまった。


ああなんて愚かな愚かな愚かなピエロ。
観客達よ、笑えばいいわ。

そしてあんまり謝られるから、私の口は私に反乱を起こして独立国を設立し、まさかまさか、いいやがった。

「でもなんか安心した。私、アキラに恥ずかしくて言えなかったけど、好きな人がいるの。話、聞いてヨ」


頭真っ白。
どうするの。どうするつもりなの。いるわけないのにそんなもの独立国を設立したならかまわないから、他国に迷惑かけてんじゃないよ馬鹿!


アキラの桜が咲くような、チューリップが花開くような、春に若葉が目を醒ますような、新しい芽が一斉にいぶくような、そんな、はるの日溜まりいっぱい吸い込んだ声でもちろんもちろんと、頷いていた。

痛いじゃないか馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。





私は思考回路がショートして、唯でさえ会う頻度が減ったのに、嘘のピンク色した話題を練り上げるために、自ら、アキラを、避けざるを、えなくなってしまったのだ。

アキラはすっかり張り切って、いつだって顔を合わせれば、そのくりくりと、月より優しく星より可憐で太陽より眩しい目で
「いますぐ聞くわ!任せて、フミちゃん!」

…と語りかける。

まだ台本を作りあげてしまえない私は、先生に呼び出されてるとか、当番がとか、ささやかな可愛い嘘をついて、嘘の重さの割にアキラに近寄れないことで、隕石が地球に激突したくらいのクレーターをいたいけなハートにぼこぼこあけながら、逃げた。


ああ、なんて、なんて愚かな愚かなピエロ。

観客達よ笑えばいいわ。










太陽の生熱い陽気に蒸し出された過去が巡る。眼下には変わらずアキラと狼。
深い深い、深海にも潜れるのではないかと思える程のため息をついた。既に自ら大概棄ててしまった幸せが、今ので更に逃げただろう。

男の名前はなんだったか。どうでもいい情報は欠片も記憶できないくらい、フミカの体は髪の毛の先から爪先まで、指先に巡る毛細血管を流れる血液の中のヘモグロビンに囚われた酸素まで全てアキラでいっぱいだった。

アキラ以外の誰かを好きだなんてあり得ない。
突如襲った鈍痛がフミカの足から力を奪い、プリーツスカートをひらめかせて白い足が崩れた。

鈍痛が頭から足先まで血液にのって駆け巡る。出口のない血液を送り出す心臓の音ばかりが、皮膚の内側を埋め尽くす脂肪と筋肉と骨を伝って鼓膜を震度させる。
本能に任せて全身の力を抜くと、笑えるほどあっけなくフミカの柔らかい曲線美がふにゃりと太陽に温められたコンクリートの上に倒れた。
涙腺から太陽の火でも潜りこんだか、目の奥がずきずき痛む。喉の内側から誰かが器官を押し潰す。

しかし、泪は出口を無くしてさまよった。

いっそ呼吸が止まればいい。いっそ心臓が止まればいい。体を覆う空気を全て全てのみこんでしまえば、酸素は消えて止まるだろうか。
だがどれほど飲んでも吸っても酸素はざばざば供給されて、不足するなどない。考えてもみれば、うじゃうじゃ地面を這い回る我が儘極まりない人間たちを優しく許容する奴らが、たかが一人の人間ごときを殺すはずがなかった。


アキラと話がしたい。アキラね体を抱きしめたい。暑い夏の熱気も、不愉快極まりない梅雨の湿気も、息が凍る冬の冷気も、息吹く命を見守る春の生ぬるい空気も、センチメンタルを応援する秋の風もイチミリだって入り込めないくらい、肌を密着させて、あわよくばそのまま太陽に飛込めば、骨まで溶けて一瞬でもアキラを私に私をアキラにアキラで私でアキラにできないだろうか。

もう馬鹿馬鹿しすぎて声もでない。
喉が焼かれて熱い。砂漠の砂はこんな気持なのかもしれない。



とけちゃった。


脳みそ。


豆腐程度の強度しかなくて、ふんだらぷちぷちいうらしい、ね。

そんな脆くて、でも鮮やかなピンクが吐き気をさそいながらくしゃくしゃ皺をよせて、でも恐怖に脅えてかたいかたい頭蓋骨に隠れた。ずるい。

片方だめになっても、肉にすがりつけるように二つにさけた。ずるい。

そんな脳みそが、どうして高尚で精密なコンピュータプログラムに負けるのだろう。
子育てのためにできたらしい、恋、とかいうプログラム。だったらだったら、これは恋ですらないの。

太陽の容赦なく残酷な夏の残り日に焼かれて、キンとなるピアノ線のような耳鳴りをききながら私、は、なみだが流れていることに気がつかなかった。

体がぴくりとも動かない。動かす気もない。なのに脊髄か脳みそかしらないが、心臓と呼吸器官だけは着々と生きてる。
肉を縫って電気信号が飛び交う。
太陽にこんがり食べ頃まで焼かれる体の隅から隅まですべて、お山の大将気取りながら、臆病に要塞に籠る脳髄に、電気信号が巡る、巡る、巡る、巡る、巡る。

異常なし。
痛覚なし。
外敵なし。
故障なし。意欲なし。
体が重くて億劫なのは、もしかしてもしかして、いよいよ血を含み過ぎて強欲な内臓が全部人工物に代わったからかも。
変わらず流れる血液とかカルシウム成分とか、そういう科学や生物の教科書から無表情に私を見下す単語を名前に受けた成分たちが、入ってきた人工物と科学反応を起こして、じわじわ壊しているのかも。

そうしたら、体が全部くちるまで、それを刻みつけながら、脳みそだけ最後まで残るのか。

いい気味だ、ザマアミロ。

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