「おーい、そこのオジョーサン」
太陽の熱がずいぶん穏やかになった。コンクリートは目一杯溜め込んだはずの太陽熱を失って冷たい。
昼休みに地面にぬいつけられて、そのまま体がこんがりステーキになって炭になって灰になって風に飛ばされてしまうのを夢想しながら、フミカは本当に夢の島へ飛ばされてしまったようだ。
夏の終りは昼と夜の気温差が売りなだけあって、体は見事に冷えていた。
思考回路だけ半分夢の島に置き忘れてきたのか、重たい痛みを抱いて、鈍い。
彼女の視界に入るのはふるびたコンクリートの地面と、紺色に橙が流れ出てにじみゆく空。
黄昏時だ。
「オジョーサン、起きたー?」
「やぁねぇ、オジョーサン。あんまり無視したら、すねちゃうわヨ」
空からフミカの耳へ、声が降ってくる。そうか、まだ夢につかっているんだ。早く早く起きなければ。
「せえ、のう、そぅれ」
どかっ
「ぎゃあっ!」
「あら、やだ、蛙でもつぶしちゃったかしら」
フミカは衝撃のあまり声がでなかった。声と共に舞い降りて…否、落ちてきた重みで肺が潰れ、声どころから呼吸も危うい。
空気を吸ったら、激しく咳き込んでしまった。
「どいて」
「あら、起きてたんじゃない」
「どきなさいよ」
「もう、あんまり返事がないから死んでるのかと思っちゃったわぁ」
「どけって言ってんのよ…っ」
噛み合わなさすぎる返答にこみあげた怒りは、怒鳴りではなく低い低い、地の底から響くような小声へと抑圧されていった。
ようやく重みが消えて自由になった体を起こす。
最悪の寝覚めだ。
空は名残の日光でほの暗く、飲み込まれそうな深い青い、紺。
重みにもがいてやっと見上げると、それは黒い学生服に身を包んだ男子生徒だった。前髪を上げてピンでとめているらしく、晒者になった額はニキビ一つなく綺麗だ。
にこにこ効果音が聞こえてきそうな笑顔。
「オジョーサン、そんな細かったら元気な赤ちゃん産めないヨ〜。ちゃんと食べなきゃあ」
ゆるく伸びる独特の語尾と、いつまでもどかない圧迫感が煩わしく、もう口を開くのも諦めた。
諦めて、すっかり太陽熱を宵の空気に吸い取られて冷たいコンクリートに頭を預け、赤から紺から黒へ、そして星を散らす空の行方を視界に浮かべていると、ようやく重みが消えた。
自分の体がこんなに軽いと初めて知った。
「おじょーさん、こんなとこにいたら、閉じ込められて出られなくなるわよ」
軽くなった体には、男の体重の代わりに、思い出したように男の声が降って来る。鎖骨で喋っているような、骨に染みる低い声が心地よくて嫌気がした。
フミカは冷気が混ざり、色が薄くなった唇を頑に引き結び、声を受けては無視し続けた。
溜め息に混じって、頑固ねぇ。
冷たい屋上のコンクリートを伝って聞こえた足音は、遠ざかるどころか近づいて、やがてもう一歩進めば踏まれるだろう位置で止まった。
気配とはかくも明確なものだっただろうか。アキラ以外の存在を悉く排除し続けたフミカには、アキラという一種の精神的バリケードを失った今、彼の気配は直に肌で触れているコンクリートよりも明確だった。
足音は止まったまま、気配だけが近づいて、やがて体温を無くした頬や耳がじわりじわりと熱をおびる。
頭も体もコンクリートに預けたままでめまいがした。
耳元に籠る熱が、男との距離を知らしめた。
呼吸が耳たぶを擽り、逆の耳はコンクリートと頭の重みで潰れている。
呼吸とは別の音が、それは多分声、だったのだろうと思う。けれど殆ど夢にひたったままの頭は、それを単語として受け入れることを拒絶していた。
やがて溜め息と共に足音が遠ざかり、重たい扉を開く音。
否、開こうとした音と、また溜め息。
「おじょーさん、どうしよっか」
何事だろうと考えを巡らせるのも億劫だ。見上げた空はすっかり濃い夜の色。そういえばグラウンドから届いていた球児の声もいつの間にか聞こえない。私はそんなに長いこと夢現に浸っていたのだろうか。
「オジョーサン、聞いてる?閉じ込められちゃったみたいヨ」
重たい頭を起こすと鈍痛。頭が痛い。首が痛い。肩が痛い。腕が痛い。腰が痛い。足が痛い。心が痛い。
頬の表面を生暖かい液体が流れて、制服の襟に落ちて乾いた音をたてた。まだ残っていたのかと、呆れた。
「こっちが泣きたいわヨ。ドラマ見逃しちゃうじゃない」
ぴったり沈黙した錆びたドアを男が思いきり蹴った。静かな屋上にその音はあまりに大きすぎて、風が吹いた。
重く脈に合わせて痛みを訴えるあたまを、ひきつる首で持ち上げて、見上げた空の星に笑われたから笑ってやった。カラカラに渇いた喉からはかすれた声しか出なかったうえに、下手に動かした粘膜が上手く動かなくて咳き込んだ。
「あなたもしかして頭オカシイの?」
呆れでも嫌悪でも嫌味でも無い事実を確認するだけの淡々とした口調に安堵。引きつる首筋を無理に動かしたけど回りきれず、尻をコンクリートに乗せたままくるりと無理矢理向きを変えた。体重に押さえ付けられた下着が微妙にずれて、二つに割れた尻の谷間に食い込んだ。さらされた肌がコンクリートに直に触れてざらりとした感触がかえってくる。
「オカシイのはアンタの口調もじゃない」
久しぶりに出した声は、渇ききった上にひきつる喉を通過して、酷くしわがれていた。自分の物では無いように思えて、少し、落ち着く。
「…失礼ねぇ」
細められた目元は怒りではなく笑みを含んで、違和感。星空と月をしょった男を見ながら、似合わないと笑ってしまった。
彼はおもむろに腕を上げて、手首に巻いた分厚いベルトの時計を見た。先程と随分様子が違って、優しく細められる目元が意外に鋭くないことに漸く気付いた。
「…結局、見逃しちゃったじゃないの」
苦笑してすくめた肩は、ちゃんと骨の張った男の子。途端体の奥底が酷く煮えたぎって、夜風が肌を冷ますにも関わらず、私は酷く熱いと思った。
時計の巻かれた締まった手首から続く手の骨張った輪郭、とがった顎に丸くない額、ふくよかとは程遠い頬、くびれのない腰、細くズボンの余る足、全部が彼に集約されていて揺るがない。それは彼女の隣に立って立ち続けるためにきっとなにより必要なことで、クリームを山のようにぬりたくったケーキを3ホールくらい飲み込んだように胸の辺りがひりひりした。
無意識のうちに私の手が伸びて、膝で前のめりに数歩、前進。髪が風に吹かれてなびく。私の顔はだいぶ滑稽だったらしく、男は一瞬後ろに退いたけど、真後ろは錆びた鉄扉、すぐに詰まった距離の先、私の手が男の両腕を掴んだ。
男が身じろきしたけど、私の手は離れない。
手のひらに感じる硬い感触。骨の上から無駄な脂肪を絞りだして筋肉だけをほどよき巻き付けた感触。心なしか私たちのそれよりとがった肘の関節も、制服の上から輪郭だけが浮かび上がる。
喉が渇いた。
泣き続けたせいでもなく、屋上で無防備にねこけたせいでもなく、長時間水分から遠ざかっているせいでもない。体の芯を高熱の鉄柱で焼いたようにこみあげる乾きが、上手く回らない舌と喉を焼く。鼓膜を殴るのは風を押し退けて心臓の脈動。男が何か言いたげに唇を歪めたが、その声さえ通さない程に強烈な。
唇を開くと唇の端が切れたようにピリピリと痛んだ。
「ちょ…だ…」
愉快なまでにかすれた喉では上手く声を産み出せない。涙をだしきった涙腺が、体内を暴れまわる激情をはきだそうとして鈍い痛みを訴えた。
止まらない。喉が乾きすぎて酷く鋭い痛みを訴えてくるのに、途中何度も咳き込んで、喉の辺りの粘膜がひきつって激しい嘔吐感に襲われても、ひたすら全身を震わせる鼓動だけにつつまれていた。
「ちょうだいよ…っ!ぜ…ぶっ!よこしなさいよ…!!」
始め身じろきした彼の体は、もうぴくりとも動かない。大木が岩を割り根を張ったよう。握っていた腕の皮膚の下で筋肉が動くのを掌に感じたけれど、感じただけ。なにもかわらなかった。
喉が焼けるように痛くて、心臓が鬼のように早鐘を打って、酸素が足りない。夜風が髪を揺らして、でも皮膚に気温は伝わらなかった。
「アンタ、何が欲しいの」
降り注いだ声はあまりに優しくて寒気がした。降り注いだ視線があまりに優しくて寒気がした。私は一体何にすがっているのだろう。毛穴という毛穴がどっと開いて、嫌な汗が吹き出した。
体の芯が小刻に震え始めて、それが中から外へ広がる。筋肉までも自由にならない。まるでぶるぶる震え続けて、男の腕を掴んでいたはずの手がずるりと落ちた。
肩を抱いて震えを止めようとしても止まらない。
男が私の視線を追うように重心を落として屈んだ。
「オジョーサン、自分の名前、知ってる?」
にっこり笑って彼は自分の鼻辺りを指差し首を傾げた。
激しく暴れ続けていた心臓が次第に収まって、血液過多だった脳みそがやっと通常の機能を取り戻した。ああ、これが頭を冷やすということかなんて、場違いな事が頭をよぎった。
彼の手が肩に触れて、自分の意思になんの関係もなく体がびくりと跳ね上がった。手は怯むどころかなだめるようにゆるやかなリズムで肩を叩き続ける。
魔法みたいだ。
変にこわばったからだが緩む事を思い出した。
「人に物を頼む時は、名前聞いてからにしなさいヨ」
「ごめん…なさい」
ぽろりと溢れた謝罪の言葉。瞼が動いて瞬き、すると乾いた眼球がひりひりした。
「ヨクデキマシタ」
唇の両端をくっと上げて目を細める、笑い方が歳不相応な気がしてならないのに似合う。前髪を上げて丸見えの綺麗なおでこがまぶしかった。
私が肩を上げ下げして、凝った体をほぐすと、彼の手が肩から離れた。
今更のような気がして、言葉を脳みそからひっぱりだすのが年末の大掃除並に大変だった。
「…私、フミカです。アナタは?」
合わせていた視線を上げて立ち上がった彼の足は意外に長いんだと思う。歳不相応の笑い方は、ああそうだ、男性に遠い。
「アキラ」
その単語に心臓が大きく跳ねた。顔の筋肉が一斉に硬直して、ぎしぎしと音がする。頷くことも出来ない。
「フミカちゃん?」
改めて呼ばれた名前。同じアキラの名を持つのにその声は低く、甘い甘いアキラの蜂蜜漬けの砂糖菓子の声と違う。
そう気付いて安堵。
私はようやく笑えた。
暫く経って、二人は無事救出された。
見回りをしていた当直の教師が二人を見つけたのだ。
お陰様で散々説教を受けた挙句、保護者を呼ばれて帰路についた。帰りは帰りで叱られるかと覚悟したけど、存外両親は無口だった。フミカの顔と声に泣きはらした痕跡がくっきり残っていたからかもしれないと気付いたのは、脱衣所兼洗面所で鏡に映った顔を見た時だった。
目が赤くむくんで、頬と目尻に涙が渇いた跡がついていた。
鏡の私を鼻で笑う。
醜すぎて愉快だった。
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