むせるような湿気
むせるような蝉の声
むせるような体温
ああ、溶けてしまいそう。
甘いあまい汗の匂い。
少なくともこの人間の血だけは、ヘモグロビンの鉄の匂いではなく、甘いあまいチョコレートのような、そんな誘惑に満ちているに違いない。
「あのさぁ」
「ん〜」
「あっついんだけど」
「そうだねぇ」
ぼかん
「いったぁい!酷いっ!女の子の顔殴る?!」
「女が女を殴って何が悪いっ!熱いって言ってんのよ馬鹿!女なんて体脂肪の固まりよ?!天然のウィンドブレザーよ!このクソ熱いのに何の我慢大会?!」
「だってアキラがいつまでもそのマンガ回してくんないんだもん」
「モンじゃないわよ。ガキじゃないんだからちったぁ大人しく待ってろっ!」
……まあ、こんな怒鳴り文句が全部小声で繰り広げられているんだから笑える。
サウナなんて要らないくらい蒸し暑い夏の日。わざわざ太陽の下に飛び出して行く果敢な男子を尻目に、昼休みは更衣室に篭って漫画を読むのだ。
更衣以外の時間の更衣室使用も、漫画の学校持ち込みも勿論禁止。
バレるわけにはいかない。こんな快適な休み時間を奪われるわけにはいかない。
だからいくら熱さでまいった脳みそでも、声のトーンを最低限に抑えるだけの理性が働くのだ。
一頻り怒鳴り、再び漫画に目を落としたアキラの背中。じんわりあせがにじんで、ブラウスの下、キャミソールがすけていた。
ピンクの水玉。かわいいでやんの。
背中に背中をくっつけて、無駄に体重をかけると、向こうも負けじとかけかえしてきた。
なんだか妙におかしくて、二人して笑ってしまった。
そんな昼休み。
むせるような湿気
むせるような蝉の声
むせるような体温
終りを告げるチャイム。
眠たい。眠たい。ふわりふわりと不確かな、確かに掴んだ、つもりでいた。
ああ、溶けてしまいそう。
【それは眩暈に似ていた】
チャイムが鳴り響く余韻がきえるまで目一杯ねばって、細い項から漂う花も叶わぬフェロモンに酔いしれた。
まどりつく湿気を押し退けて、少女たちが若さに似合わぬ気だるげな声を上げながら立ち上がり、居心地の良い隠れ家を後にする。
アキラが立ち上がり、眠たげなフミカも立ち上がった。
長いこと折り畳まれていた足に、血液が一気に流れ落ちる。足は驚いて痺を訴え、逆に脳みそは芳醇な酸素を急激に失って目の前に闇がちらついた。
思春期は誰でもたちくらむらしい。レバーもほうれん草ももりもり食べる。なのに容赦がないものだ。
しかもただでさえ足りてない血液を、下のお口がわざわざ吐き出すものだから、足りるものも足りなくなる。
額を押さえて停止したフミカの肩を、叩く手が柔らかくて安堵した。
「大丈夫〜?急に立つから。態度の割に貧弱だもんねぇ、フミカは。」
馬鹿、私はいつだって必要以上に健康優良児だよ。
なんて笑って答えようとしたけれど、まだ血液の足りない頭が冷たくて、口がひらかなかった。
機械も暖まらないとスムーズに動かない。人間もオンナジなんだな。
骨のカルシウムを鉄にかえて、まとわりつく厚い脂肪をシリコンに代えて、頼りない筋肉を強化ゴムで作った人工筋肉に代えて、内蔵を全部エネルギー製造のための機械にしたって、私は私のまま動き続けるんじゃないだろうか。
いらないところが痛まなくて、いっそそちらが楽かもしれない。
アキラに背中を優しく押されながらようやく心地よいぬるま湯に満ちた水槽から這上がる。
南向きの廊下ね窓は、不必要に太陽の光を呑み込んで、暑くて暑くてまた視界にいくらか黒い斑点が浮かんだ。
「フミカさん、顔真っ青よ、大丈夫?」
ぬらりと鼓膜をなぜるにつめすぎた砂糖と果物の混合物みたいな声。このあついのに、人工的に作られた匂い水を全身から匂わせる。
乳がでかいだけの女教師。
よるんじゃないよ、吐気がする。
離れたくてあとずさったが、匂いに気圧されて言葉が出なかった。
言われるままに保健室へ連れられていく。
なさけなくて涙もでない。
どうせならアキラに連れていって欲しかったけど。
人工甘味料より強烈な臭いを纏った先生に付き添われ、保健室。
潜り込んだベッドのシーツが冷たくて心地よかった。
去って行った彼女の残り香を薬品の匂いが消していく。「あぁあ。カッコワルイ」
いくらか染みのある屋根を見上げながら呟いた言葉はホントにどうしようもなくかっこわるかった。
きっとあのマナー知らずの香水臭にやられたんだ。
アキラなんか、もっと上品に優しく香るのに。
見習えばいい。
いつの間にか寝ていたらしい。
気が付くと、薬品の香る落ち着いた室内は、夕日に染められてオレンジ色だった。
保健室の先生の姿はない。
嫌に心地よいと思ったら、どうやらクーラーが効いているみたいだった。
予算のない公立学校だけど、体調を崩した生徒を思い遣るくらいの心遣いくらいはできるらしい。保健室は数少ないクーラーのある部屋だ。
眩しい夕日に向かって歩いた先にある窓はグラウンドに向いている。
校舎があるよりいくらか低い位置に作られたグラウンドは、一階の保健室からも十分見渡すことができた。
狭いグラウンドを、半分はサッカー部、半分は野球部、その周りのトラックの余りで、陸上部員が肩身狭そうに練習している。
野太い掛け声が蜃気楼のように聞こえてくる。
炎天下に健康的な肌を晒して、こんがり美味しそうな小麦色の少年たち。キラキラ光を乱反射する汗粒は、きっと近付いたら臭いんだろう。
青春真っ盛り。湿度すらわすれるほどの涼しい室内にいるのに、見ているだけで太陽の強烈な熱に焼きつくされてしまいそうな。
漫画やドラマなら、いわゆるヒーローを見に集まるファンの女子生徒や他校生が、黄色い歓声をあげているのかもしれないけど。
熱い熱い白砂のプレート。美白の時代、そんな熱心なミーハーはいない。せいぜい二階や三階のベランダから、安全な日陰に隠れて、ぼんやり甘い片思いにひたるくらい。
「…あ」
熱された砂から放たれた熱が、ゆらゆら地面付近の視界を揺らす。そんな細やかな歪みなんてものともせずに、汗をかいたペットボトルの山をその華奢な腕に抱いて走り回る、くっきり浮かんだ、
「アキラ」
その名前だけ、まるで魔法のようにキラキラ粒を放つ。
鎖骨に支えられた喉元から、胃まで駆け巡る痛みは、真夏の太陽なんて目じゃない。
アキラは意地でも美白にこだわって、この暑い中、上下ジャージにキャップ帽子を被り、首はタオルで完全防備だ。
なんだか笑える。今時おばさんだって、男の前じゃやらないよ、そんなカッコ。
ペットボトルと一緒に最高の笑顔を振り撒きながら、グラウンドを駆ける。
キラキラと光を乱反射する彼女の汗は、きっと真珠のように滑らかだ。
体はフミカなんかより、ずっとずっと細いのに、なんてたくましい。
なんて、艶やか。
「アキラ」
ねえ、アキラ。
何でサッカー部のマネージャーなんてやっちゃうの。
野球のが何倍も好きなくせに。
ねえ、アキラ。
迎えに来てくれるでしょう。
待ってる。夜まで日が沈むまで、憎き狼たちが散々になるまで、全身の血流を操って、とても起き上がれないフリをして、ずっと待ってる。
空はカンと濃い夏の晴れ。
ああ、雨が降ればいいのに。
雨はふらなかった。
夕日を背負ってアキラは走り続け、きらきらと、匂いたちそうな体を動かし続けた。
やがてクーラーの電源が落ちて、教師も殆ど帰路につき、赤から青から紺から黒へ、室内がめまぐるしく染め変えられて、校庭から張りのある掛け声も届かなくなった。
駄眠も狸寝入りもとうに飽きて、痺れすら訴える背中に答えて寝返りをうった。
目に入った時計は八時を過ぎた。
腰の辺りから爪先と髪の先まで鳥肌がたつ。
いつのまにか乾いた汗のあとばかりが確かでキモチワルイ。
「さむい…」
放った声は、誰もいない室内で、遮られることなく広がって、壁にぶつかり返ってきた。
「夏のくせに」
寝すぎて鈍く痛む頭を支えながら起き上がり、グラウンドを見下ろした。
うら若き男女は爽やかな汗の余韻に残った体温と同じテンションでそれぞれの目的地へと少ない自由時間を味わいに行く。
グラウンドにはもうだれも残っていなかった。時折片付けを押し付けられたり、喋りすぎて出遅れた数人がちらほらと現れては消えていく。
アキラは、いない。
胃の中に大きな氷を詰め込んだような不快感。
「まってたのに」
哀れな音を受け止めるのは染み付いた壁と清潔な薬品棚だけ。
滑稽すぎて笑えない。
胃の中で氷が自動精製されて気持ち悪いことこのうえなかった。
「ナプキン、変えなきゃ」
ようやく呟いた言葉が、希望と期待で塗り固められた愉快な夢から、秩序と常識で固められたぬるい現実にフミカを引きずり戻した。
麻酔が切れれば体が肉であることを思い出せばやがていらぬ痛みすら返ってきた。
恐らく担任が律儀にはこんできたのだろう、可愛く飾ってみたフミカの鞄を持ち上げると、湿気と蝉の声を目一杯飲み込んだかのようにずっしり重かった。
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