室内を手探りで歩き回ると、間もなく目が闇に慣れた。
慣れたといっても、物の輪郭を確認できる程度だ。今更ながらあの募集用紙の赤い文字を思いだす。
それでも不思議と逃げたくはならなかった。
部屋の中には、それはそれは大きな窓が隠れていると思われる巨大なカーテンが一つ、王様の地位にふさわしい、大きなベッドが一つ、床は一面絨毯で、床の下から暖をとる仕組みだ。向こうにキッチンらしい場所が見えた。大きなクローゼットがひとつ、背の低い棚が一つ。
それだけで完結した、広い広い部屋だった。
だけどひどく狭い部屋だ。
棚の上に時計が乗っていて、針が時を刻む音がよく聞こえた。
「…ひかる?」
突然真後ろから呼ばれて、心臓が痛いほど驚いた。
「はい、何ですか?」
体ごと振り替える。
そこには王様が、立ち方の鏡のように立っていた。
目だけではなく、首から上を向けて彼を見て初めて背が高いのだと知った。
「ひかるは、目がみえぬのか?」
王様は闇目が効くのか、手探りで歩き回る光の様子を不思議に思ったらしい。光は首を振った。
「いいえ、そんなことは」
王様は安堵したようにそうかと言って、元いた所へ戻った。
王様の長く艶やかな髪が絨毯の上を這って行く。光ははっとして棚をあさった。重量感溢れる木製の棚からブラシと結い紐を見つけだし、王様の元へ歩み寄る。
途中何かにつまづいてバランスを崩すと、王様が立ち上がって手を貸した。
「す…すみません」
主人に手を借りる召使いなんて…。
顔に血液が登って熱い。
王様の顔が見れなかった。
だってあんまりあついから、間違いなく茹で蛸状態。笑われてしまう、そう思ったらとても顔を上げられなかった。
王様は何も言わない代わりに、光の手を取って、体を引き寄せ、彼の座るソファーへと導いた。
ゆったりと長い髪を闇に踊らせながらソファーに沈む。
高さが逆転した。
下から光の顔を見上げる。
睫毛が長い。
赤い唇が闇に映えて、白肌に映えて、宝石みた…
「ひかる」
「はいぃっ!!」
見入った唇が突然音を発したものだから、声が裏返ってしまった。
王様は一瞬目を丸くした直後、目を細めてクスクス、クスクス、クスクスクスクス。
光の赤い顔に更に血が登って行った。飽和状態で栄養過多の脳みそがくらくら揺れる。
「王様っ!」
恥ずかしさのあまり、叫んでしまった。後悔の大波が光の背後から迫り来る。
王様は大きな大きなソファーに、ゆったりと体を沈めて
「なんだ」
さらさらと光が溢れる髪をかきあげた。
何か妙な悔しさを覚えて、ブラシと結い紐を武器がわりに王様につきつけた。
「髪を結います、かまいませんか」
王様は長い睫毛に飾られた目を見開いたが、すぐに笑って頷いた。
「頼む」
「…はい」
髪は笑いたくなるほどながかった。
踏まないように、背中からではなく横からブラシをかける。長いのに、水よりなめらかに流れる銀の髪は、ブラシの歯に支えることなくさらさらと受け流す。
そもそも邪魔だからと髪を伸ばさない光が髪を結ったことなど一度もなく、悩んだ挙句、襟足辺りで一つにまとめるという簡単な方法しか思いつかなかった。
「終りました」
「ありがとう」
「いえ」
ブラシを棚の上に置けば、時計の針は宵の口を告げている。
「ひかる」
「はい」
振り返ったが、王様はソファーに身を預けたまま、腹の辺りで指を組み、伏せがちの瞼、長い長い睫毛が影を落とす。
「ひかる、ひ か る。ひかる」
艶やかな唇がつむぐ、コトダマは間違いなく己の名のはずなのに、低く優しく空気を震わすその音は、さながら星屑。
「ひかる」
王様の青い瞳が、光を見据えて名前を読んだ。
甘い甘い飴玉を舐める子供のように、それはそれは深い青。
「御用、ですか」
白くしなやかに長い指を、招くように差し出されて、光がない部屋の中、自ら闇をかきわけて鎮座する彼の隣へと歩み寄る。
「ひかる、歳はいくつだ」
「19です。王様は?」
王様は困ったように苦笑した。
「知らぬのだよ。私は、私の生まれた時すら知らない」
その笑顔が何故か痛いと思った。
「申し訳ございません…。失礼いたしました」
「構わぬ。私は今、いきている。それでいい。」
「…はい」
「人には親があるだろう。ひかるのご両親は?このような仕事で、さぞご心配だろう」
今度は光が視線を泳がせて、王様が首を傾げた。
答えあぐねる光をせかしもしない王様が、顔をそらして一つ、二つ、咳をした。言葉を促すにしては、随分と傷だらけのかすれた咳だ。
「大丈夫ですか」
とっさに背中を撫でる。
マントの下の王様の背中は、ひやりとするほど、細かった。
「大丈夫だ。ひかる、私こそ、要らぬことを聞いたか」
光はゆっくり首を振った。
「死にました。風邪をひいて、そのまま」
記憶を辿り細めた目を、王様がのぞいてその短い髪をすいた。
優しい指が、痛くて、笑った。
「僕も、大丈夫ですよ。そろそろお休みの用意、いたします」
「ああ、頼む」
クローゼットをあけて、寝間着を探す。
見つけだして、王様に渡すと、王様は光に背中を向けて、器用に肌を隠したまま、一人で着替をすませた。
王様がベッドに入ってから、光は巨大なカーテンを遠慮がちに開けた。そのむこうには、分厚いカーテンにふさわしい、巨大な縦長の窓がしんとはまっていた。
降っていた雪はやんで、すんと晴れた高い静かな冬の夜空。
遠慮がちな星の代わりに、眩しいばかりの月夜。
「今夜は満月ですよ。凄く綺麗だ。きっと良い夢が…」
「まんげつ?」
王様が不思議そうに光を見た。
「なんだ、それは」
「ご存知ないのですか」
目を見開く光の前で、王様は確かに頷いた。
「美しいのか」
「はい」
「見たいな」
光は、頷く代わりに、両手の広がる限界まで、重いカーテンを開いた。
差し込んだ月明かりに浮かぶ王様の肌は雪より白い。
青い瞳が眩しそうに、けれど酔いしれるように細められた。
縦に長い大きな窓から、静かにそそぐ、真ん丸な満月。
月を移す王様の目は、月と同じ、澄んだ青。
唇は花が咲いたようにあかい。
あかい花が鳴る。ああと。
「うつくしい」
花はやがて三日月へ。
紅雪が降る国の王様は
誰より無知な 王様
お月様すら知らない人
そして
「ひかる」
「はい」
布団に沈む、彼の傍らに膝をつく。
王様の指が、闇から掬うように、ひかるの頬をたどった。
「いてくれるか」
「勿論です」
王様はふわりと微笑み
「さあ、お休みなさいませ」
長い睫が月色の瞳に幕を下ろし、今日が終わる。
そして、誰よりも
寂しがりやなのです
「ひかる」
「はい」
ようやく闇の中でも不自由しない程度に動けるようになったころ、王様はクローゼットの奥から、何やら大きな正方形の箱を取り出した。
「何ですか、これ」
王様は何も言わずに箱をあける。
高い高い窓のした、月明かりが手元を照らし、箱の中には何十枚もの肖像画が入っていた。
王様の白くて長い、彫刻のような指が、一枚ずつその絵を取り出した。
「これが、父上。これが、母上」
「…え」
ひかるはおもわず目を擦り、絵を見、王様を見、再び絵を見た。
王様は何も言わずに次の絵を並べる。
「これが母上の祖父母。これが父上の祖父母」
「……え…と」
思わず唾を飲み込んだ。
なんと、言っていいのか、あまりにも
「似ていないだろう」
「…はい」
「よく言われる」
王様は眉尻を下げて笑った。苦笑だな、と思った。
肖像画になった王様のご先祖様は、お世辞にも美しいとは言い難い。
一体彼等のどこからこんな王様が生まれたのか。
「気味が悪かろう」
「何がですか」
王様は尋ねたままの姿勢で、表情だけ崩して、笑った。
「何でもない」
王様は出した時と同じように、丁寧に絵を箱へ返した。
「ひかる」
「はい」
「ひかる」
「…はい」
「ひかる」
「……なんですか」
王様はくすくすと上品に笑った。鈴は神さまだか天使だかの歌声だと誰かが言っていたけれど、王様のその声は、それならば何に例えればいいのだろう。
箱をクローゼットにしまおうとした王様は、突然激しく咳き込んだ。
箱が音を立てて落ちて、ひかるの心臓が一度死にかけた。
王様はそのばに崩れるように蹲り、あまりに傷だらけの咳を繰り返した。
痛い、痛い、痛い。
「王様!」
駆け寄ろうとしたひかるを手で止める。
「大丈夫、だ。少しむせただけだから」
「ですがっ」
「大丈夫だ」
肩で息をする声が、硬く硬く扉を閉ざした。光は黙ってたちすくむしかできなかった。
痛い痛いと咳がないて、時間ばかりが無言のまま過ぎた。
やがて王様の咳が止まり、落とされた肖像画も片付けられたころ、時計を見れば宵も深い。
窓から二人を照らす月は、先日の満月から目をこらさないとわからない程度に欠けていた。
カーテンは、太陽が眠りにつくころ開けられ、王様が眠りにつくと閉ざされる。月と星ばかりの数時間、窓が切り取る外の景色を王様は実にいとおしそうに抱いていた。
朝日を一度だけ待ってみたが、王様には眩しすぎた。
泣いてしまうのではないかというほどに、綺麗に微笑んで、朝日を遮るカーテンをその青い瞳にうつしていた。
「王様、咳がでるようですから、今日はもうお休みください」
「ああ、そうしよう」
いつもの通り、光に肌を見せずに着替をすませ、咳に痛められて穴のあいた呼吸をお供にベッドに入る。
そして傍らに光を見上げ
「いてくれるか」
「もちろんです。お休みなさいませ」
ゆっくりと瞼を下ろした。
紅雪が降る国の王様は
紅雪が降る日にお生まれに
血筋ではありえぬほど
美しくお生まれに
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