ひ か る

赤い唇が生む己の名は、まるでどんな宝石よりも輝いて見えた。

あの日、闇の中、黙して女の連れた光を待っていた彼は、それまでずっと、あの闇にいたのだろうか。

月も知らずに太陽も知らずに星も花も動物たちの息遣いも、空の高さも、雪の白さも、大地の強さも、風の厳しさも


ひかる


ただひたすらその言葉を繰り返しては、笑った。


王様


つむいだはずの言葉が、闇に飲み込まれとどかない。
ひかると呼ぶ声が、調子を変えないのに、酷く寂しげに響いた。
おうさま、おうさま、おうさまっ

もどかしさに狂ってしまいそうだった。

白い体がおりまがって、痛い痛いと咳をする。







光は深い眠りから引きずり出された。

「おうさまっ!!」

傷だらけの咳が力一杯鼓膜を叩く。
夢だ。
現実だ。

理解すると同時に、王様の元へ駆け付ける。
王様は白い体を大きく揺らして、激しく咳き込んでいた。

コンコンではなく、ゲホゲホでもなく、もっと乱暴に王様の体を蝕む不快な音。
空気を叩き、鼓膜を叩き、心臓を握り潰す。

「おうさまっ!」

覗き込むと、王様は慌てて布団で顔を隠した。だが光の目には、確かに見えた。

闇のなか、どす黒くぬめる、血。


「王様っ!」

口元を隠す手を布団ごと引き剥がした。布団にも手のひらにも、赤い唇にも白い輪郭にも、赤が塗られている。
光は火の塊を飲み込んだのではないかと錯覚するほどに、食道と気管が激しく痛んだ。

「とにかく、水を…っ」

医者を呼ぶという選択肢は存在しない。

王様の咳がとまるのを、薄い背中を撫でながら、白い体を支えながら、ただただ待つしかなかった。

「ひ、か、る」

ようやく波がひいたころ、呼吸を確かめるように、隙間だらけの声が確かにひかるをよんだ。

「はい」

たまらないほどの安堵。
悲しみだけではなく、喜びだけではなく、混ざりすぎてもう単語が存在しない、頭の後ろがぐしゃぐしゃと泣き出しそうなそんな感覚。
ひかるは王様の視線まで体を落とした。

王様は血のついた光の手を握り、固まった頬を撫で、恐らく酷く痛むだろう、胸を押さえた。

「ひかる、私…が、おそろしくは、ない…のか」

「え」

王様は一言一言、ゆっくりと言った。
「私は、おかしいのだ。私は、狂っているのだぞ」

世の中の全ての美しいと形容される物が存在意義を無くす、美しい瞳が、ひかるを射る。

月色の瞳の奥、太陽の炎を見た。

光はゆっくり、ゆっくり首を左右に振り、真っ直ぐに青を見返した。

「いいえ」

王様の目が見開かれる。
光は小さな満月を見つめた。
「いいえ、恐ろしくなどありません」


紅雪が降る国の王様は
紅雪が降る日にお生まれに
王様の血筋では有り得ぬほど美しくお生まれに


「真に狂った者は」


そのうえ血を吐く持病持ち
医学を知らないこの国で
それはこの上ない恐怖でした


「真に狂った者は、己を狂っているなんて言いません」


だから王様のお父様は
彼を
狂乱者

御呼びになりました。


「あなたは、狂ってなどありません」

光が見つめる満月が、水をたたえて揺れ、ゆっくり閉ざされた。
赤い花が、それはそれは美しく咲いて、白い頬を水晶が転がる

「ひかる」
「はい」
「ありがとう」

「ありがとう、ございます」





紅雪が降る国の王様は
生まれたときから
この部屋に閉じ込められ
ひかりを知らずに育ちました。
だから
雪のように白い白い王様は
もう太陽の元に出ることは

叶わないのだそうです。





「ひかる、ひかる!大変だ!」
「なんですか?!」
「速く来てくれっ」
「はい!」

珍しく王様は声をあらげて、光は剥きかけの林檎を投げ捨てて王様の元へ駆け付けた。

「いかがなさいましたか」
「月が」

王様がこの世の終りとばかりに示した指の先には月。
「月が欠けておる!」

「はぁ?」

光が思わず素っ頓狂な声をあげたのは言うまでもない。
確かに月は、はっきり認識できる程度に欠けていた。だがしかしそれは自然の摂理。太陽の光の加減にふりまわされる、優しい月の鮮やかな変貌。
けれど天変地異の前ぶれかもしれないとまで口走り始めた王様。そこまで思いつめられると、かえって言い辛いなと、光は遠慮がちに口をひらいた。

「月は、欠けるんです」

月から光へ視線を返した王様。光よりずいぶん年上のはずだけど、その表情があどけなくて
笑えた。

「欠けるのか」
「はい」

一度知識を整理して、子供むけの月の絵本並にわかりやすく解説すべく一つ一つ丁寧に言葉を選ぶ。
王様は終始、頷きながら、
「詳しいな」

最後にそう感想を述べた。
光は目をぱちぱちさせて、普通ですよ、と言いかけたのを飲み下し、代わりにありがとうございますと言った。

『明日の天気…お知らせ…ます』

光と王様、二人の声しかしなかった部屋に、電波を通して他人の声が混ざる。
それは光が先日持って来たラジオ。太陽のもとにでられない王様に、せめて外の景色を伝えたかった。

『明日のて………曇りのち晴れ……う。山間部では…きが降るでしょう』

「ひかる、曇りというが、月はみれるのか」
「ええ、後に晴れらしいですから、見られると思います」
「そうか」

笑って、笑った。


二人を切り取る大きな大きな硝子窓、透かしてみても今宵の空に月はいない。

「今宵は月が見えぬが、あれが新月か」
「いいえ、今日は曇っているだけです。雲が空を隠しているだけですよ」

長い長い銀の髪を整える手付きは、随分滑らかだ。

「ひかる」
「はい」

噛み締めるような、舌の上で転がすような、ゆっくり紡ぎだされる名が心地よい。
王様は手招きして、身を屈めるようにと促した。
光は言われるままに腰を曲げ、座る王様の目線に並ぶ。
「なんですか」

王様の長い指が、光の顎を捕えて引き寄せ、王様の顔が近すぎて焦点が合わない。

唇に、触れた。こんこんとラジオばかりが時を刻む。

王様の顔がようやく焦点を定められるまで離れ、顎を捕えていた手が頬を撫でる。

「おっ、おおおお、王様っ?!」

闇をくっきりきりとって、光の頬が赤い。耳が赤い。唇が赤い。首まで赤い。


王様、と叫んでみたはいいけれど、金魚も声をあげて笑うのではと疑うくらい、後は口をぱくぱくさせるばかり。


王様が笑い、髪がさらさら揺れた。

「愛しいものには、こうして触れるのだろう」

光は真っ白になった頭をフル回転させて息を吸った。吐いた。ぎこちない深呼吸は想像以上に効果がなかった。

「どこで覚えたんですかそんなこと!」


叫ぶだけなのに、こんなに体力がいるだなんて知らなかった。

王様は、まるで目を醒ますのと同じくらい平然として、ラジオを示した。

「あれだ」

熱がひかない顔をなだめながらラジオを見る。ちょうど流れているのは今夜の番組案内。なるほど、その中に恋愛ドラマが入っている。

光はまだ熱になじまない頭を押さえ、ブラシを片付けるべく立ち上がった。

「ひかる」
「…はい」
「ほら、月が」

闇夜を切り取る大きな大きな窓から、雲の合間を縫って、月がみえた。
赤い光をわらうように、なんて優しい三日月。


余計な物を持ってきたのかもしれない。
けれど一番問題なのは、無知な王様ではなくて


「ひかる、ほら、月がきれいだ」


王様ではなくて、いやだと思わなかった自分自身

「ずいぶん欠けたな」

「そうですね。明日は新月になるかもしれませんね」

窓から望む月は、まるで闇夜を綴じる金の糸。
細く細く、繊細だった。

『明日のて…です。明日は……年ぶりに紅雪がふ…しょう』

ラジオの音が、心地よく部屋に馴染む。
ざらついたノイズも、時折途切れる拙さも、月に丁度良い。

王様は一人、寝床を用意する光に背をむけ、かといって月には顔を伏せ、こぼした。また、降るのか。

寝具の絹擦れの音で、聞きとれなかった。光は手を止め振り返る。
「なんですか」

「いや」

王様はひかるに背を向けたまま、星に囲まれ静かに揺れる月を見上げた。

笑って、いるのだろうか。

「ひかる」
「はい」

「ありがとう」




「それだけだ」

翌朝、早くから紅雪が降った。
とっぷり赤い、まっかなまっかな、まっかな牡丹雪。

早くから買い出しに出ていた光は、紅雪が舞う空を見上げて、綺麗だなと思った。

はたと足を止めたのは、通りかかった店のラジオが、緊急速報と叫んだからだ。
『緊急速報。たった今王族より連絡が入りました。王様が』

寒いからではなく、表情を失った少年の耳に、機械ごしの声が容赦なく飛び込む。

『王様が、お亡くなりになられました』

光の手から袋が落ちた。

ぐしゃり。

赤い地面を踏みしめ、蹴る。走った。

今朝王様を起こさないように慎重に音を消して出かけたのだ。あの時、夢に浸ったはずの王様は、そのまま溺れてしまったのだろうか。早朝だからと変な気をつかわず、声をかければよかったのだろうか、出かけなければよかったのだろうか、さくばんのおうさまがありがとうなんてつげたなはなんででかけてしまったんだ。


彼は、何より独りで眠ることに脅えていたのに。


呼んだのだろうか、赤い赤いあの唇が。満月を飲み込むあの青い瞳が

ひかる、ひかる。いてくれるか。


痛い。
冷たい空気が肺を刺して、呼吸が凍る。


町と城の境界線を越えようとすると、重く黒い鉄の門の前の門兵が、光を押し留めた。


「ダメだ駄目だ駄目だ」
「なんでっ」
「城内では王様の弔いの儀が始まる。参加できるのは御血族だけだ。お前を入れるわけにはいかない」
「そんな!」

なおも男たちを押し分け進もうとする小さな体を、強靭な腕が押し返す。
光はすっかり積もった赤い地面にころげた。変な角度で落ちたせいで肩が痛い。
立ち上がると足首も痛んだ。

男二人が黙然と立つ背中から、城門に内側から鍵をかける音が聞こえた。


もうこえもでない。


ただ赤がしんしんと積もった。

紅雪が降る国の王様は

紅雪が降る日にお生まれに
紅雪が降る日に即位され

生まれた時から

御狂乱

見上げた空は、あの時の王様のお部屋と同じ、黒一色。

「王様、ほら、今夜が新月です。」

あれほど舞った赤はもうやんだ。

ただ闇ばかりが満ちる。

「見事なものでしょう、真っ暗です。今宵はお早くお休み下さい」

言葉を紡ぐうち、出口を失った涙が、ようやく道をみつけた。
喉の奥が、痛い。




紅雪が降る国の王様は

紅雪が降る日にお生まれに

紅雪が降る日に即位され

紅雪が降る日にお亡くなり



「王様、お休みなさいませ」

凍てついた頬を滑る涙は、暖かかった。

いてくれるかと、確かめる声はもういない。

「おやすみなさいませ」



終幕


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