「ねえ、フミカ、最近の噂知ってる?」


夏の熱い太陽がようやく落ち着いて、徐々に地面との距離を測り始めた秋の入り。屋上から眺めるグラウンドには、緑があせ始めた樹木が風にその葉を揺らしていた。
鉄臭さの漂う金網に背中を預けて、あの夜の事はまさか夢だったのかもしれないと思うくらいに、もしかしたらフミカの都合の良い妄想だったのかも知れないと言うくらいに、あのアキラという男とは会っていない。
隣には久方ぶりにアキラがいて、最近その唇に、淡い色がつくリップクリームが塗られていて、ああ、あの男にじわりじわりと染められているのだろうと、真っ黒な闇のような鈍痛。
やんわり歯をたてたくなる、滑らかな頬を眺めて、アキラの声を飲む。極上の麻薬のようだ。

「フミカ!聞いてるの?!」
「聞いてる。そんなに叫ばなくても、ちゃんと聞いてるよ。右から左に」
「それ、聞き流すって言うんだよ」

下唇が厚めのぽってりした唇が美味しそうだ。なのにそこにのっかっている邪魔な人工色のピンクに食欲減退。あの男、階段から突きおとされてころげ落ちて二度と再起不能なくらいに全身骨折したって、アキラを蝕んだ罪は許さない。

「…ノロケなら、聞かないよ」
「私がいつのろけた」

きっと睨みつけられて、その柔らかい刃にくらくらする。

「私じゃなくて、噂よ。うわさ!」
「…私、噂ってあんまり好きじゃないなあ」

根拠なんてどこかに忘れて暴走する伝言ゲーム。綺麗事でも偽善でもなく、フミカはそれが苦手だった。

「好きじゃないのは知ってるけど、渦中にいるのがフミカだから聞いてるの」

ああ、ちゃんと覚えていたのだという事実に安堵して、でも頬を緩ませる程油断していない。もっともっと呼べば良いのに。その張りのある唇から、人工着色料が剥がれ落ちるくらいに、呼べば良いのに。私の名前。

「どんな噂か知らないけど、どうせ何の根拠もないし。何、アキラ、信じてるの?」
ちょっとだけ首を傾げて、唇の端を上げてみる。小馬鹿にしてるように見えるかしら。

「私が信じて…るのは、フミカだから」

どくん。
全身が震えるのではないかと思うくらいに、フミカの心臓が跳ねた。何処までも正直な体に吐気がする。せっかく作り上げた表情を保ちたいのに唇の端が震えそうで、思わず顔を背けて、笑った。

お腹をかかえて背中を丸めて必要以上に声を上げて全身私の筋肉だから、どうにでも誤魔化してみせる。そんな苦労なんて欠片も気付かない、アキラの手が容赦なく背中を平手打ち。今度は演技でもなんでもない。激しくむせた。どんな大女優だって生理現象には適わない。

「何で笑うの」

更に立て続けに叩かれ、空気を器官で迷子にしてしまったフミカは妙な痛みに咳き込み続けた。なおもナゼナゼと繰り返して手を上げようとするアキラから、不本意にも、そう実に実に不本意ながらも逃げた。その手が届かない距離を挟まなければ、このままでは会話にならない。

「何で…って、アキラがあんまり…」


あんまりあんまりイトシスギルからだよ。

そんなこと口が裂けても言えないから、変わりの言葉をさがさなきゃ。
ひさかたぶりの二人きり。上手く言葉を引き出せない。自分で思っていた以上に舞い上がっていたことに今更気付いたけれど後の祭り。
早く速くコトダマのカミサマ落ちて来い。

「アキラが、あんまりクサイ台詞言うから」
「かっこよかったでしょ」

片眉を器用に上げて腕組み。ぷっくりした唇の片端も器用に上げて、ずるいくらいに空が似合う。

「アーソウデスネ。カッコイイデスネ」
「うわっ、むかつく」

そっくりそのままお返ししますよ。かわいすぎてかっこよすぎて、ずるい。人の気も知らずにどこの馬の骨とも知らない男に色目つかいやがって。ムカつく。

「ゴメンゴメン。聞くよ。噂って」

何、続けようとしたら無情にも授業開始を告げる鐘が鳴った。
慌てて立ち上がったアキラは、当たり前みたいに私の腕を掴んで抜けるんじゃないかってくらいに引っ張って走り出す。
私は割りと体調不良で授業を休みがちだから、アキラは私を授業に出すことにいつだって必死だ。

手首を掴む握力が皮膚から筋肉から骨から中身へ伝わって、その痛みはそのままもっともっと奥の、ともすれば溢れてしまう箱の中身。

「アキラちゃんってば、まっじめぇ」
「馬鹿!フミカが出席ギリギリなのが悪いんじゃない!」

















結局、噂がなんだったのか聞き損ねてしまった。噂なんて勝手に生まれて、当事者だけが知らないままに勝手に流れて勝手に広まって勝手に廃れて勝手に消えていって、消えてしまう直前くらいに当事者の耳に入るかもしれない。そんないい加減な物だ。フミカにとっては明日突然宇宙人が襲来して宇宙戦争に地球が巻き込まれるかもしれないと言う非現実的極まりない妄想を馳せるよりもどうでもいいことだった。
それよりもしかと握られた手首を覆う薄い制服の長袖の布が、布にくるまれた二人分の肌が、肌にくるまれた脂肪が、脂肪にくるまれた筋肉が、筋肉に包まれた骨が邪魔で邪魔で仕方なかった。
こんなに全身が叫んでいるのに、階段を駆け下りる二人分の足音にかき消されて聞こえない。多分、今日も授業なんて聞こえないだろう。

教室に入って、アキラと別れて、遅刻したことをたしなめられた。教室中が密かにざわめいたけれど、それ以上に私の耳は走り抜けて離れていくアキラの足音を逃がさないように必死だった。聞こえなくなってからも、彼女の息づかいを追うことで必死だった。

机に坐ったって、ノートを開いたって、教科書を音読したって

こりゃあ、重傷だ。


かんと抜けるような秋の高い空に浮かぶ、秋特有のあわくて薄い白雲をながめて、初めてそう思った。



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