オレが死ぬ時、
誰かが泣いてくれたら
さ
オレの人生って、
肯定されるのかな
[雀の涙]
(………何かいる)
真っ白に染まった小さな公園でのこと。
悟は冷たい雪に足首ほどまで沈めたまま、立ち止まった。
彼の視線の先には少女。
悟るに思わず足を止めさせたのは、彼女の姿だった。
肌も切れそうな寒さの中、真っ白のノンスリーブワンピースを着て、肌は真夏の太陽に愛された小麦色。
少女は両手を左右に広げ、目を閉じ、冬の高い空を仰ぎ見ていた。
眉を潜める悟の存在に気付く様子もなく、ゆっくりと瞬きをする彼女。もう一度瞳で深呼吸、そして軽やかに助走し、飛んだ。
ずぼっ
「どぅわっ!冷たっ」
落ちた。
「ばっかじゃないの」
低く呟くと少女はがばっと体を起こして音の発信源を見る。目を大きく見開いて悟を凝視。そして陸に上がった魚もびっくりのしなやかさで跳ねるように立ち上がった。
「…みてた?」
頷く。
「どの辺から」
「手ぇ広げてるあたり」
「一部始終?!」
悟が耳を押さえるほどに彼女は叫んだ。
何やら一人内なる自分と対話しながら、呆然と虚空を見…ているのか否か定かではない目をした少女。悟は一つ、ため息。
「何してたわけ?」
「……。飛ぼうと」
「ばっかじゃねえの」
「うわっ、イタイッ!」
少女は大袈裟に胸を押さえて上を向いた。
「飛べるわけないだろ、ニンゲンが」
「とべるよ!私は小鳥なんだから」
「は?何、ソレあんたの名前?思い込み激しすぎ。『鳥』がつけばニンゲンは飛べるわけ?そしたら日本の空、人間だらけでたまんないよ」
「違う!私は本当に!」
「付き合ってらんないね。やること馬鹿だし、言うことも馬鹿」
悟はため息とともに、白い地面の上をUターン、くるり。
「逃げるの」
「帰る。じゃあな、二度と会いたくないよ」
ヒラヒラ振る手は意外に細い。
あ、
公園の入口まで来て思い出したように振り返り
「そのカッコも、馬鹿」
「なっ…」
赤くなった自称小鳥を今度こそ振り返ることなく、悟は去った。
(…またいる)
次の日、やはり真っ白に染まった公園に、小鳥と名乗る少女がいた。
今日はベンチに行儀良く膝を揃えて座っている。
これが真夏の景色なら完璧なのに、今は雪降り積もる冬真っ盛り。なのに彼女はまた真っ白のノンスリーブワンピース。
悟が思いきり渋い顔をしたのは、小鳥が座っているベンチが毎日悟が使っているベンチだからだ。
盛大に溜め息をつくと、大きな白い息が生まれて消えた。
「あぁぁぁあ!昨日の!」
悟が耳を押さえるほどに、叫んだ、アゲイン。
わざわざ立ち上がって、「犯人はお前だ!」と言わんばかり。腹から出た声は日々発生練習に励む演劇部の皆さんもたじたじだ。
「あのさあ、昼食時で人がいないからいいようなもんを。恥をしらないの、アンタ」
「失礼なっ」
「お前のが失礼だと思うけど。わかんない?やっぱ弱いんじゃねぇの」
ココ。と自分の頭を人差し指でつつくと、小鳥は口をつぐんだ。
「アンタ学校は?今日は紛れもない平日だぜ。外しても中学生。大学生ってのはありえない」
「それを言ったらアナタも同じじゃない。私と年、かわんないでしょ」
「俺はアンタと違って学校さぼってんじゃないの。行・け・な・い・の」
「え…」
小鳥が真顔になる。
冬と言えども暖かいお日様の光がぽかぽかと二人に降り注ぐ。
「中学浪人」
「違うよ馬鹿」
「じゃあ停学ね。なぁにやらかしたの、ぼうや」
「ぶわぁか」
「馬鹿って言う方が馬鹿なのよ?!」
「俺、馬鹿じゃねぇもん。名門男子校に通う首席の天才」
「じゃ、お尋ねしますが首席サマ。何でこんなとこぶらついてんの」
「忙しいんだよ」
「どうみても暇人1号よ」
「何、そのだっさいネーミング。俺はサトルって素敵な名前があんの。オーケイ?馬鹿」
「馬鹿じゃなくてコ・ト・リ」
「ん、じゃあ小鳥ちゃん。俺、明日も来るからさ、アンタ来ないでくれる?毎日口喧嘩も疲れんだよね」
そして軽やかにUターン。
「逃げる気?」
「帰る。じゃ」
今日は手すら振らずに去って行く悟。その背中を悔しそうに見ていた小鳥。
お日様の光は二人に降り注ぐ。
(…流石に、いねえか)
次の日。雪は溶けかけていてキラキラと光を反射していた。
悟はいつものベンチに座り、持参したバックの中から分厚い本を取り出してページを捲った。
お日様はいつも通り心地よい。
遠くから車のクラクションの音が3回くらい聞こえて、小さな子供が来て遊んで帰って、お昼の買い出しらしい主婦の皆さま方も帰ってしまったころ。
水溜まりになった雪を踏んでぴちゃぴちゃと歩いて来る音が耳に入って、悟は顔を上げた。
「…こないでって日本語も通じないわけ」
悟の視線の先にはやはり白いワンピースを着た小鳥。これでもかというほど呆れた顔を作ると、小鳥はこれでもかというほど笑顔を作り、かわいらしく小首を傾げた。
「ダメ?」
「開き直りやがったな」
「え、なぁに」
片手を後ろに、片手を耳にあてて悟の方に体を傾けて訊く。
一瞬の沈黙。そして
悟は吹き出した。
小鳥は変わらず笑顔で
「なぁに」
悟がケラケラ笑いだして、小鳥もつられるように笑いだした。
たまたまやってきた通りすがりのおばさんが怪訝そうに二人を見ながら早足で去って行った。
「物好き」
「そうかなぁ」
再び可愛らしい声をだす小鳥。
「寒くないの、物好き?」
「私、健康だから」
腕の筋肉を見せるように片腕を上げて曲げてみせる。あらあら意外にマッチョ。
悟はそういう問題かよ。また笑う。
「悟、何、それ」
「ソレ」と思われる分厚い本をかかげて見せると、小鳥は難しい顔をして
「かずまなぶに?」
と読んだ。
「アンタ、まじもんのばか?『数学2』す・う・が・く・に!わかった?物好き」
「酷いっ!それに私は小鳥よ、こ・と・り!」
「あー、はいはい、わかったよ。小鳥ちゃん。で、うるさいから帰って」
「あらあ、そんなこと言っていいのかしら悟くん。寂しいくせに」
「なんだよそれ。妄想癖?」
「私、知ってるのよ。悟が毎日ここに来て、一人でさみしがってるの」
「うるさいな。仮にそうだとして、何で赤の他人のアンタが気にかけなきゃなんないわけ。親切なボランティア精神?…はっ!御立派なことですね」
悟が体を硬直させたのは、小鳥が酷く傷付いた顔をしていたから。
「ごめん、ね、私…」
小鳥の声は消え入りそうで、絞りだしたように震えていた。悟は慌てて首を左右に振る。
「ごめん!オレが言い過ぎた。ほんと、ごめん…」
バサバサと音をたてて『数学2』の分厚い本が落ちた。幸いそこには水溜まりはなかった。
本が落ちた音に驚いたらしい鳥たちが、可愛らしい声で鳴きながら一斉に飛び立った。
二人は顔を見合わせて、落ちた『かずまなぶに』を見て、鳥が飛んで行った方角を見て、また顔を見合わせて
「「ぶっ」」
あっはははは
笑った。
何ともシリアスが長続きしない二人は、箸が転がっても可笑しいお年頃よろしく、腹をかかえてケタケタ笑った。
これまた幸いなことに、人はいなかったが、野良犬が二人をみて何を思ったか、そそくさと去って行った。
お腹一杯笑った二人は、苦しそうに空気を吸い込み、先に言葉を発したのは悟だった。
「真面目な話、さあ」
「なに」
二人は同時に深呼吸。ようやく笑いの輪廻から脱出できたらしい。
「なんで学校行かないの。小鳥、実は浪人生?」
小鳥は人差し指を唇にあてて、いたずらっぽく笑った。
「ヒミツ」
その指先を悟にむけて
「悟は?」
悟も唇に人差し指をあてて、悪戯っぽく笑った。
「ヒミツ」
「キモチワル」
「失礼だ!」
立ち上がった悟は怒りの表情。
二の腕をさする小鳥は不愉快の表情。
で、睨めっこして、吹き出した。
今度はクスクス笑いでおさまりましたとさ。めでたしめでたし。
悟は『数学2』の本を拾い上げた。
雪はすっかり水へと変わっていた。
「じゃ、俺帰るから」
「うん、ばいばい」
小鳥が手を振って、悟も手を振った。
次の日。
雪が溶けてできた水溜まりも地面に吸い込まれ、ややぬかるんだ土の上。
小鳥がやっぱり白いワンピース姿でやって来て、いつものベンチが乾いているのを確認して座った。
遠くでクラクションの音が何回かきこえて、小さい子供が来て、遊んで、帰って、昼食の買い出しだろうおばさんたちが重そうな袋を持って去って行って、犬とジョギングするおじいさんが一人と、野良犬が一匹通って行っても、悟は来なかった。
よくよく考えたら今日は平日。自称優等生サマも、たまには学校いくのかなと思って、彼女は公園から去って行った。
「悟、今日も来ない」
箸が転がっても可笑しいお年頃を実演してから早10日。地面はすっかり乾いていた。
ベンチに座って、すらりと引き締まった足をぷらぷらさせる小鳥は、やはり白いワンピース。
彼女の前で、何人かの子供たちが嵐のようにやってきて、遊んで、お母さん達が迎えに来て、一人、また一人、とうとう最後の子が帰ってしまってから、足元にあった小石を爪先で蹴った。
思ったよりとばなかった。
「日曜日なのに」
唇を尖らせて呟いても、訪ねてきたのは一番星。
小鳥はとぼとぼと公園を去って行った。
「悟がねー、来ないの。どう思う?」
足元で何やら地面をつつく雀に語りかける小鳥。
箸が転がっても可笑しいお年頃を実演してからもうすぐ一月。昨日久しぶりに雨が降った。
地面には水溜まりがいくつか残り、晴れた空を映していた。
突然、雀が勢いよく飛び去った。小鳥が鳥を目で追いかけると、その視界に、入った。
抜かるんだ地面を踏みしめる音。
「サトル!」
飛び立った雀に負けない勢いで悟に駆け寄る。久しぶりに見た彼は、やつれていた。
「…今日もいたの」
珍しく破棄のない声。
「ジャマ?」
尋ねてみると、悟はゆっくり首を振った。
「座っていいか」
「並んで?」
「たまにはいいかもな」
ベンチに腰を下ろした悟は、背もたれに体重を預けてしまった。
閉じた瞼を縁取る睫毛が意外と長い。
目を閉じたままだ、隣のスペースを叩いて、小鳥に、座れよ。
「悟、いつもと違うよ」
「さあ、そうだったかな」
「最近は真面目に学校行ってたんだ?慣れない勉強して、疲れたんでしょ」
悟はゆっくり笑った。
「違うよ」
緩慢な仕草で首を左右に振って、体いっぱいに空気を吸って吐いた。
「病院、行ってた」
目を見開いた小鳥の唇が小さく震える。
今度は小鳥がゆっくり息を吸って吐いた。
「大丈夫?」
「今は平気。ありがと」
ムンクの叫びよろしく、突如立ち上がった小鳥は、弾力のある頬に両手を当てて
「本当に大丈夫?!お礼なんかいっちゃうし!」
「失礼だぞ」
悟は、ボールをお供に子供たちが遊びに来たのを見守って、帰った。
小鳥は、その背中にまたね、と呟いたけれど、あまりに離れすぎて、悟の耳に届かなかった。
(今日はいないのか…)
翌日。空には落ちてきそうなほどの黒い雲が立ち込めていた。
けれど昨日のあいだに水溜まりは随分乾いて、歩いても足にぬかるみは感じなかった。
悟は一歩一歩、地面を確かめるように歩き、ベンチに座った。
ぼう、と空を見上げると、重たそうな黒い雲。
一度ゆっくり目を閉じて、もう一度開けると、曇天が小鳥の顔に変わっていた。
彼女、足音一つたてずに近づいて、悟の顔を覗き込んでいたのだ。
悟はしばらくそれが理解できず、ただ呆然と小鳥の顔を眺めていた、が、小鳥が口を開いて、悟!と呼びかけると同時に、小鳥が思わず耳を押さえるほどの大音量で叫んだ。
「びっくりするだろ!」
「私がびっくりしたよ!」
精一杯腹筋を使った悟。まだ動悸がおさまらない胸を押さえて深呼吸。小鳥はその隣にちょこんと座った。
「今日も来れたんだ」
「親が出るな出るなうるせぇから、コソドロみてぇに抜けてきたんだけどな」
「…病み上がりのくせに」
「いいんだよ、もう」
「どっちの意味で?」
小鳥は曇天に穴をあけようとでもするように、じっと空を睨んだ。そうしていないといけないと、思ったから。
押し黙った二人の前を野良猫が一匹通り過ぎて行った。
「小鳥」
「なに」
「俺が死んだら、泣いてくれる」
「泣いて欲しいの」
「誰かが、泣いてくれたら、肯定されんのかな」
「…悟が、そう思うなら、そうなんじゃない」
沈黙、再び。
小鳥が悟の横顔を盗み見た。血の気の薄い唇に、頬。どこか眠そうな目は、曇天ではなく向こうの青空を望むようだった。
「俺な」
「うん」
「体悪くて」
「うん」
「学校休みっぱなしでさあ」
「知ってる」
「…んだよ、ストーカー?」
「で?」
「へえへえ。ダチもいねえし親不孝。まあ、時間だけはあるから勉強して、成績が良いのは本当」
「うん」
「でも、いつ消えるかわかんねぇ奴に、期待する人間もいねえし」
「そうかな」
「どうかな」
深いため息をついて、悟はまた口を閉じた。
小鳥はまた黒い雲が立ち込める空を見ていた。
突然、悟が座った姿勢のまま地面に落ちた。かわいた地面が削れて、湿った土が彼の服にまとわりついた。
「サトル!」
絶叫に近い声を上げて、小鳥は悟の肩を揺すったが、彼は固く目を閉じて、全身を緊張させたまま、ふつふつと汗を浮かべるばかりだった。
「待ってて、誰かよんで…救急車!」
走り出そうとした小鳥が尻餅をついた。悟が小鳥の白いワンピースの裾を掴んだのだ。
紙のような唇を、辛うじてあけて、
「ここにいて」
どうせ駄目だから、音というより空気摩擦に近いかすれた声。小鳥の表情が消えた。
尻餅をついた姿勢のまま、浅い呼吸を繰り返す彼を、見ている以外に何をしていいかわからなかった。
目を閉じたまま、必死に肉体にしがみつく悟は、瞼に落ちた滴を感じて、目を開けた。
瞼がこんなに重いなんて知らなかった。
緊張した腕を伸ばし、太陽に愛されたような小麦色の小鳥の頬に手を当てる。
「ことり」
泣いてくれるのか。
言葉は続かかなかった。
「サトル、やだよ、私はサトルを助けにきたんだよ」
頬を包む彼の手を握り、彼女の喉は震えていた。
「大丈夫、大丈夫だよ、サトル」
悟は精一杯笑ったつもりだった。喉はもう震わせることができなかったから。
耳に落ちる、頬におちる、小鳥の涙が冷たくて、心地よかった。
「私ね、サトルに助けてもらったんだよ。だから…」
小鳥はまだ何か言っていたけれど、最後までは聞こえなかった。
闇だけ。
あるのは、闇、だけ。
定期的な電子音が耳障りで目が醒めた。
白い天井に医薬品の匂い。
どこかに寝ているらしい。
身動きしにくいと思ったら、口には人工呼吸器、腕には点滴。
病院だった。
俺は、生きていた。
首を動かして回りを見たが、小鳥の姿はなかった。
暫くして両親が入って来た。馬鹿みたいに嬉しそうな笑顔が、馬鹿みたいに頭にこびりついて離れない。
俺は雪が降る中、血を吐いて公園で倒れていたらしい。
駆け付けた家族は死を覚悟したらしい。けど、生きていた。
奇跡だっ医者は言ったが、俺の脳裏をよぎったのは奇跡なんて簡単な言葉ではなく、あの時、辛うじて聞こえた小鳥の言葉だった。
小鳥は?女の子はどこに?
訊いてみたが、誰も彼女の姿を見た者はいなかった。
間もなく外出許可が出て、真っ先に公園に向かった。
暖かい春風に、入院中に伸びた髪がなびいた。
小鳥の姿は、ない。
いつものベンチに近付くと、ちょうど日向になったベンチの上に、小さな野の花がいくつも置かれていた。だいぶ前のものらしい、枯れた花もあった。よく飛ばずに、と思って摘みあげると、何か固いものでつまんだような跡がいくつもあった。落ちる度に拾いあげたのだろう。
花をベンチに戻そうと視線を落とすと、一羽の雀がいた。その雀は、嘴に花を一輪くわえていた。
「小鳥…?」
雀は小さく頷く。
雀の胸元の白い羽毛が乾いて変色した血で染まっていた。
『飛べるよ、私は小鳥だもん』
俺はなんて答えたっけ。
「ごめん、な」
ベンチの上の彼女に視線をあわせるため、しゃがんだ。
「小鳥だって、アンタ言ったろ。信じなくて、ごめん」
小鳥は首を左右に振った。
そして器用に俺の膝に乗ると、くわえた花を差し出す。手を差し出すと、手のひらに白い花が置かれた。
「ありがとう」
口をついて出た言葉に自分で驚いた。まさか言えると思わなかった。
俺、今赤くなってんだろうな。あーあ、笑いたいのに口がうまく動かない。
「花と、これ」
そっと小鳥の胸についた血を撫でる。
深く、深く深呼吸。
春の匂いがした。
「ありがとう」
小鳥は小さく鳴いた。
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中学生らしい少年が、いつも使っているベンチの足元に、怪我をしている雀を見つけた。
恐る恐る拾いあげると、小さな体は暖かく、震えていた。
『雀、じゃわかんなくなるな。コトリ。俺、アンタのこと、コトリって呼ぶから』
少年は走った。
学生鞄をベンチに残し、向かったのは動物病院。