泣いていた。
泣いていた。
泣いていた。
むせるような湿気の中、こけむした森の中で一人静かに
しくしくしくしく、しくしく、しくしく。
少年の発展途上のまだ幼い顔。見開かれた瞳、黒く飲み込むように映した、天井、否、それは、空。
青々と低く波立つような夏の空。
じっとりと湿った空気が肌にまとわりつく。額に浮かんだ玉の汗が輪郭を伝って流れて耳をくすぐり、髪を濡らす。
寝返りを打つと、木陰が少年の体を迎えた。日差しが遮られて心地よい。けれど肌にまとわりつく湿気は変わらず、襟足も汗に濡れて産毛が焼けた肌に張り付いていた。
き も ち わ る い
薄い唇が動いた。
き も ち わ る い
けれど眠い。
まるで嘘のように眠い。眠くて眠くて地面に飲まれてしまいそう。目だけはしっかりと見開いているのに、思考は夢に浸るよりも不確かだ。
緑色の鮮やかなバッタが草の間だから跳ねて、少年の顔にぶつかった。それでも、肌の感覚は遠い。
ゆめかうつつかうそかまことかけかはれか。
風が吹いて瞼がおちた。
残像が闇に浮かんで溶ける。そのまままどろみの闇に身を任せようと、すると音が鋭利なガラス片のように鼓膜を震わせた。
頭蓋骨を震わせるほどの、過敏な聴覚。
静かに脈打つ地面。虫の行進、跳躍、身を潜めて呼吸を止める、青々とした草が揺れて笑う。くす、くすくすくす、くすくすくす。広大な大地を伝って聞こえる水の、
音?
それは全て命の音。
はてしのない輪廻。
音、光、音、光、音、闇、そして音。
こんなにも世界は穏やかだ。
光の残像すら消えてしまった意識に冷たく潜り込んだ、一筋の音。それはざわざわとせめぎ合う大地の鼓動の合間を縫って、くっきり輪郭線を持った、孤独な音。
しくしく、しくしくしく、しくしくしくしくしく。
しくしく、しくしくしくしく。
声?
しくしくしくしく、しくしくしくしく、しくしくしくしく。
声。
泣いている。
縫いつけられた瞼は開かない。残像すらも消え去った視界に音が絵の具を落とす。
白い肌、白いワンピース、細い項が滑らかな長い髪の間だからのぞく。少女。だ。
泣いている。
それは、声。
けれど体は動かない。
瞼も持ち上がらない。
しくしく、しくしく、しくしく、しくしく。
西の森の広葉樹林。
大きな木の根本、細く伸びた生まれたての木の枝に蜘蛛の巣がはって、今、小さな小さな羽虫を捕まえた。粘着力の強い銀の糸は、自由を求めて手足を空に伸ばす彼を、絡めて絡めて、呼吸だけ許して、思考だけ許して、全てを奪った。微かな震動さえ伝えるその糸は、空腹にいななく蜘蛛の祈りを伝えた。
南の森の湖の、緑の藻が泳ぐ水面の隅でアメンボが優雅に散歩、揺れて、小魚が、水面をにぎわせた、が、止まった。小さな命をかき抱いたのはタガメ。暴れる小魚に管を刺し、中からじわりじわりと殺していく。
北の草原で逃げ遅れた野ネズミが鳶の美しい爪に捕まった。生きたまま運ばれた彼は始めて空から大地を見た。彼の体は巣に運ばれ、生まれたての命によって食らわれる。
命から命へ、そして死ぬ。
東の森の、もう長いこと森を見守った大きな大きな木の枝に、鳥の巣。そこに眠る卵が二人きり、一人、目を覚まして、生まれた雛がもう一つの卵を巣から蹴落とした。帰ってきた親鳥は、彼女の子を殺した犯人に食事を与え、ぬくもりを与え、敵と知らずに命をかける。
しくしくしく、しくしく、しくしく、しくしく、しくしく、しくしく、しくしく、しくしく、しくしく、しくしくしくしく。
少年の瞼は開かない。
氷のように冷たくなく、太陽のように熱くなく、岩のように堅くなく、地面のように柔らかくなく、霧のように曖昧でなく、ガラスのように確かでない。けれど確かに全ての音をかき分けて、少年の鼓膜を震わす声、視界に描き出されるしろいしろいうしろすがたのほとりに泉。
泉の水面は下から押し上げられる水圧で揺れる。持ち上げられ、流し出され、溢れた水は小川となって大地に注ぐ。黒い土に染みこんで食物連鎖。そして空にかえり大地に注ぎ、また泉の底からこんこんと湧いては湧いては水面を揺らす。
そのほとりで泣いている、細い細いシルエット。
閉じた瞼ではない、確かに確かに少年の、意識の中に浮かぶ。
深い大地の中で空を望む若芽の鮮やかな白い肌、虫の行進、跳躍、水を吸い上げる太く細く繊細で芸術的な大木の根、種が埋まるよりも深いところでひっそりと息を潜めてただ静かに成長を続ける幼虫に、土とほとんど一体化した微生物を口から食べては尻から出す、ミミズの土を耕す様を、そしてそれを音を立てて吸い上げて、太陽の光を目一杯見上げながら、呼吸と光合成を繰り返す植物たちの鼓動を、それを食む、しなやかに跳ねる筋肉を纏った、動物を、追っては損ね、追っては損ね、ようやく捕らえて柔らかな肉に牙を立てる動物を、彼女のうしろの陰に隠れた子ども達を、高い高い白雲の上からねらい定めた鳥が滑り降りて捕らえ、運ぶ様を
視界が捕らえるよりも鮮やかに、くっきりと、まるで音もまじえてくっきりと、それは意識?
瞼は開かない。瞼の存在さえ不確かで、確かめようにも腕が何処にあるか分からない。
大地が震えて、どくどくと鼓動を繰り返す。真っ赤に溶けた溶岩。どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どくん。
虚空を舞う艶やかな蝶。
しくしくしくしくしくしく。
その間を縫って、確かに響くのは、声。
体は、大地に、食われたのかも。動かない。否、動いている、草の風に揺れて、水にえぐられて、動いている。
しくしくしくしく、しくしくしくしく、しくしくしくしく。
見えた、ようやく、見えた。やっと彼女の背中の向こう側に意識が辿り着いて、みえた、それは、闇。しくしくしくしく。しくしくしくしく。黒より黒くて飲み込まれそうな。
けれども闇に確かに浮く、その姿は白いまま、こんこんと呼吸を繰り返す、湖の畔、細くしなやかな指が顔を覆って、しくしくしくしくしくしくしくしく、しくしくしくしくしくしく。
人の形をしているのは、少年が人間だから、それ以上も以下も彼の意識が捕らえることはできないから?
しくしくしくしく、しくしくしくしく、しくしくしくしく。
瞼が、あいた。
もう何も、聞こえない。
目の前にはにょきにょきと生えた不自然な直線の建造物、太陽の光を残酷に打ち返すガラス窓、真っ黒な地面は堅く冷酷な反発だけを足の裏に伝え、爆走する鉄のかたまり、ひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひと。
まとわりつく空気は湿気を帯びて、けれどその湿気は不自然なまでに黒い。
肌がぬめぬめと黒い水分に染められて、もう何も感じない。何も聞こえない。何も見えない。
しくしくしくしく、しくしくしくしく、しくしくしくしく。